洗いものと瞑想
未だに家事全般というか、生活に関することのほとんどが苦手で妻に頼りっぱなしだけど、唯一洗い物だけはほぼ毎日僕が担当してやっている。洗い物も面倒で嫌いだったが、最近は面倒なだけではなくなっている。
たいてい音楽を聴きながら洗い物をするのだが、洗い物をしている間はたぶんほとんど何も考えていない。ただ食器を洗うことだけを意識している。食器を1つ1つ洗って片付けていくと、自分の中の何かも同じように綺麗に片付いていくような感じがして、全てを洗い終わる頃には頭もすっきりしている。きっとそれは瞑想と似ているが、瞑想よりもずっと考えていない。瞑想のときの方が勝手に思考が働いて考えてしまう。
部屋の片付けだけとそうはいかない。部屋を片付けていると片付けだけのことを考えるということができなくて、どう片付けていけばよいのかについて考えをめぐらせ、また片付けている最中の1つ1つの物を見て、それについて何かを思う。いつまで経っても片付かない。
なぜ洗い物をしていると考えないのだろう。洗い物で扱うのは食器で、服やレコードや本などの物と比べると執着がない。それも大いに関係しているかもしれない。だがそれよりも、洗い物の場合は部屋の片付けよりもずっとシンプルで、洗剤を使って洗ってそれを水で流して水切りかごに入れるだけということ、フローが決まっていることがいいのだと思う。考える必要がないし、食器の性質上、ある程度慎重に扱わなければならず、洗うことに一定の意識を向けなければならないから考える余地がほとんどない。
瞑想のときはただ座って目を瞑るだけだから考える余地はたくさんある。その空白を考えで埋めることなんて簡単だ。空白を空白のままにしておくことはとても難しいし、僕だけかもしれないが、ときに恐怖を伴う。
食器を片付けるというのは、瞑想でいえば呼吸をすること、呼吸だけに意識することになるだろうか。流し台にある食器を洗って水切りかごに入れるように、外にある空気を吸って体内に入れ、そして吐き出す。とてもシンプルだ。だが、呼吸は放っておいても続いていく。それをわかっているし、それがシンプルなことだとわかっているからか、マインドは呼吸に飽きて、呼吸にとどまることができずに動き始める。
壊れものの食器のように、もっと慎重に呼吸を扱うことができればいいのかもしれない。とても繊細なものとして。呼吸は、体や精神の状態にとても影響されやすい。本当はとてもとてもセンシティブなやつなのだ。手綱をしっかりと締めておかないといけない時もある。呼吸が速くなっているときは、それをゆっくりと落ち着かせる必要があるし、不規則になっているときはリズムを戻す必要がある。
せめて瞑想をしているときくらいは慎重に呼吸を扱うことができればいいのだけれど。今日はそのことに意識してみよう。