Life Itself

生活そのもの

瞑想中の耳鳴り

昨夜の瞑想では呼吸に意識しようと思っていたのだけれど、なかなか上手くいかなかった。左耳の耳鳴りがひどく、それが気になってしまい、呼吸だけに集中することはできなかった。

呼吸に意識してはいた。してはいたのだけど、呼吸に意識してもほかの感覚は絶えず働いているわけで、聴覚をシャットダウンすることはできない以上、ひどい耳鳴りを無視することはできなかった。もっとも、耳鳴りは外の音ではなく、体内のどこかしらで発生している現象が音として聴こえているのだろうから、聴覚とどれだけ関係しているのかはよくわからない。

改めて考えてみると、昨日書いた洗いものをしている間は、触覚、視覚、聴覚、嗅覚が働いている。五感のうち、味覚以外は全て働いているのである。瞑想の間は、目を瞑っているので視覚は働いていないにしても、そのほかの感覚には働いている、もしくは働くことができる状態にある。

呼吸に意識すると、どの感覚が働くのだろうか。呼吸の音が聞こえるから聴覚が働く。鼻から吸って鼻から吐くから嗅覚が働く。鼻の穴に空気が入って出て行くから触覚が働く。呼吸に意識することでいくつかの感覚が働いてることはわかるけれど、感覚がフル回転しているわけではない。それぞれの感覚が余力をだいぶ残しながらも少しずつ働いている。呼吸は基本的には無意識に行なっているものなのだ。呼吸の間、感覚は働いているようでほとんど働いていない、または働き方が違うのかもしれない。無意識に行なっている呼吸に意識を向けても、そこまで大きく感覚を働かせるのは難しいということだ。

耳鳴りは、いわばノイズである。瞑想の静寂の状態でなくても、耳鳴りは常に鳴っている。が、静寂の状態でないときにそれを不快に思うことはほとんどない。常に鳴っている耳鳴りをずっと不快に思っていては狂ってしまう。静寂の状態になると、その耳鳴りに気づき、それをノイズとして感じる。不快に感じる。

耳鳴りの音は大きくなったり小さくなったりする。僕の意識の問題なのかもしれない。大きく感じているだけかもしれない。とにかく、僕が感じる耳鳴りの大きさは一定ではない。リズムもない。たまに心臓の音と同じタイミングで音が大きくなることはある。耳鳴りの音は形容しがたいものだ。それはメロディではない。 音楽ではない。ノイズだ。

ただ、そのノイズを不快なものと捉えるのはなんでだろう。体が発している音なのだから、もっと親近感を覚えてもいいはずなのに。子どもの頃にはすでにノイズとして認識していた。はじめから耳鳴りは不快と感じるものとして認識するようインプットされているのだろうか。

これから瞑想をやっていく中で、また耳鳴りが気になるときが出てくるだろう。ヨガと瞑想で、耳鳴りを不快だと思うサンスカーラを取り除いていくようできるだろうか。