Life Itself

生活そのもの

抱っこ瞑想と音楽瞑想

台風のため、今日は在宅勤務になった。昼頃に九州北部に近づくとのことでどうなるかと思ったが、そこまでひどくならなくて良かった。

先日、妻が夜中出かけたとき、娘が起きてしまって、しかしそれでも瞑想を毎日することにしているからしなければならず、どうしたものかと思って、娘を抱っこして立ったままの状態で瞑想をした。そしてその翌日には、日記を書いていたときに聴いていたフィッシュマンズがあまりにも心地良くて、そのままスピーカーの前に座って、音楽を聴きながら瞑想をした。どちらも瞑想というよりは、マインドフルネスと言った方がいいのかもしれないが、悪いものではなく、その時に感じたものは今でも残っている。

娘は抱っこするまでずっと泣いていて、抱っこしてようやく落ち着いたが、抱っこした状態で瞑想をすると、呼吸が大きく深くなったことが娘にも伝わったのか、娘は首をカクンカクンとしながら寝始めた。体と体をくっつけていたのだから、僕の呼吸は確実に娘に伝わっていたはずだ。ずっと泣いていたのはおそらく寝ぐずりで、僕もそれをわかっていたから、どうにか寝てくれないかと思って少し焦りの気持ちがあったのだと思う。それが浅く短い呼吸となってしまい、娘もそれを感じ取って落ち着かなかっただろう。瞑想をしたというのは、僕のためだけでなく、娘のためでもあったということだ。瞑想そのものは、目をつぶって自らの呼吸に意識しながら、抱っこしている腕の感覚を通して娘を感じるというもので、娘を感じる方が圧倒的に強かったが、娘と呼吸だけでいっぱいいっぱいだったので、他のことを考える余裕はなかった。そういった意味では瞑想的でマインドフルネスであったと思うし、いつもの瞑想よりもいい感じだったかもしれない。

スピーカーの前に座って瞑想をしたとき、ほとんど全ての感覚を音楽に集中していた。音楽を聴いていると感情が動きやすくなるので、それで抑制できるのかはわからなかったが、(いつものことであるが)呼吸にだけは意識を向けていた。普段の瞑想中でも、外の車が走る音や風の音を聞いたりしているので、それが音楽に変わっただけであるとも言える。 瞑想の形で音楽を聴くと、普段はいい加減に音楽を聴いているのだなぁと少し自分にがっかりしてしまった。音だけに集中しているのだから、バンドなどで曲をコピーをする時くらいの感じでそれぞれの楽器の音を聴いてわけだが、それぞれの鳴り方やリズムなどこんなだったっけと驚いたし、聴いたことがない音もたくさん聴こえてきた。ボーカルに関しても、どれくらいの長さの声を出し続けているかとか、間や呼吸をどこで入れているかということを初めて認識したように思う。

この瞑想を今後も瞑想として取り入れるかは微妙なところだけれど、スピーカーの目の前に座って、目を瞑って音楽を聴くというのは定期的にやってもいいように思った。いい加減に聴くのはいい加減に聴くのでまったく悪くはない。だってスピーカーの前に対峙して座ってしまうと、いざ踊りたくなっても踊れないし。でも、音をきちんと聴くというのは、本を読むときに同じ文章を何度も繰り返し読んで理解しようと努めるのと同じように、とても能動的でこれまた好奇心を刺激する他には代え難い体験であるように思った。