Life Itself

生活そのもの

2018/10/22

赤ん坊にいくつか変化が見られるようになってきた。
 
オーボールを掴むとき、少し前までは一度両腕を開いてそこから挟み込むように掴んでいたのだけれど、最近はほぼ最短距離でオーボールを掴むようになってきた。モノとの距離感がわかり、手を意志するままに操ることができるようになってきているのだと思う。挟み込むように掴む姿はとても可愛らしく、その姿を見ることができなくなったのは寂しくもあるが、周りの環境に適応していく姿もまた愛おしい。
 
つい先程の話だが、いつものようにお腹がすいて泣き始めた。妻が忙しそうにしていたので、あやすために僕が抱っこをしたのだが、さらにひどく泣き始めた。呼吸が止まるほど全身を震わせて泣いていて、途中自分の唾液がのどに詰まったのか咳き込み始めたときは焦った。赤ん坊の尋常ではない泣き声を聞いて妻が来て、母乳をあげたのだが、母乳を飲みながらも赤ん坊はヒックヒック言っていて、泣いていたときの感じがおさまらない。本気泣きだった。今までも本気で泣いていたのだろうが、体も大きくなった分、今までとは全く異なる泣き方になっていた。妻がいてよかった。僕だけだと咳き込んだ時点で焦りに焦ってどうすればいいかわからなくなっていただろう。妻も言っていたが、母乳は最強だ。ミルクではたぶん泣き止まなかったと思う。
 
赤ん坊はどんどん成長している。その成長をすぐ傍で見ることができることはとても幸せなことだが、あまりにも近くで見ているせいか、急な変化を見せられると今日のように焦ってしまう。僕の方がその変化に追いついていないのだ。赤ん坊、恐るべし。

2018/10/21

起きてから数時間経過して急に首が痛くなり、今も痛い。ヨガもいつものようにはできなかった。寝違えかそれとも仕事中の姿勢によるものか。いずれにしろ、この痛さは我慢するのは難しいので、痛みが続くようであれば整骨院など行かなければならない。
 
父は相変わらずオーディオにハマっている。人生最後の大きな買い物と言ってスピーカーを購入していたが、ハマるととことんハマる性格で、それ以降もなにかと理由をつけて色々と買い足している模様。それで母も音楽を聴き始めたのか、若い頃に聴いていた音楽のCDを探して買ってほしいと電話があった。シャカタクボズ・スキャッグス荒井由実。僕も良いオーディオ環境で聴いてみたい。
荒井由実と言えば、すでに何度か書いているように、赤ん坊は『やさしさに包まれたなら』が大好きで、ぐずっているときでもこの歌を歌えばたいてい機嫌が良くなる。数日前に大瀧詠一の『君は天然色』を歌ってみたところ、この歌も好きなようだった。明るい曲調の歌が好きみたいだ。

2018/10/20

昨日書いたヨガスートラの感想文を妻に見せると結構なツッコミを受けたので、大幅に加筆・修正した。結果的にはよかったと思う。

あまりスピリチュアルに寄らないように心がけたが、テーマ上、多少スピリチュアルになるのは致し方がない。仕事後に感想文の修正にとりかかり、先程終えたばかり。

書きながら、ヨガをするしないにかかわらず、ヨガスートラはとても面白い本であると改めて感じた。

日記を書くには疲れすぎてしまったので、修正したものをあらためて載せる。

 

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日本語訳でも数冊出版されているヨガスートラは、どの本を読んでも難解な印象を受けますが、通読すること自体はそう難しいことではありません。どの本も現代の状況に置きかえて丁寧に解説されています。ですが、本を読むだけではこれほど手応えを感じにくい本もそうありません。それは、ヨガスートラが実践を、自らが体験することを強く要求するものであるからだと思います。
 
哲学書の類は、本を通読することで、哲学者が辿った思考を追体験することができるという意味において大きな体験の一つとなり得ますが、ヨガスートラは読むことが体験となるような書物ではありません。
 
ヨガスートラは、読むことで体験するのではなく、読みながら体験するものです。ヨガをしながらヨガスートラを実践する。普段の生活でヨガスートラを実践する。これは、普段ヨガを学んでいる方には受け入れやすいものであるかと思いますが、実践する、体験するということはあくまで個人的なものに留まります。
 
ヨガスートラの講座では、ヨガスートラを読みながらその場で体験し、実践します。また、各々が体験したことを持ち寄って共有し合います。○○先生は講座のオーガナイザーであり、進行役を務められますが、○○先生も含めて皆でヨガスートラについて考え、実践します。
 
ヨガスートラを通じて体験・実践したことは、参加者によって異なります。講座の中でのそれぞれの体験・実践について共有を行うことで、その体験・実践の意味は変化していきます。その体験は個人に留まらず、大きく膨れ上がった体験となります。本を読むだけではただ頭の中を通過していったものが、大きな体験として身体と心に残ります。ヨガをすることで身体や心に変化が生じることに気づくように、ヨガスートラ講座の後には、講座の前とは変化が生じていることに気づきます。
 
個人的には、第一子が産まれた直後に講座に参加できたことはとてもいい経験となりました。赤ん坊と接していると毎日変化を感じます。特に新生児の頃は、決して大げさではなく、母乳を飲むたびに、便を出すたびに、泣くたびに変化があるように感じていました。
 
3.47 grahana svarupasmitanvayarthavattva samyamad indriya jayah.
サンヤマの状態では、物事を知覚し認識し反応するプロセス、自我と感覚器官との関係性に精通できる
 
ヨガスートラの講座最終日だったと思いますが、上記の節について考える機会がありました。
 
生後2ヶ月を経過したばかりのこの頃の赤ん坊は、泣き方に多様性が見られるようになっていて、また喃語を発するようになってきた時期でした。
喃語なのか泣き声なのか判別ができないような声の出し方をすることがあれば、猫のように短い泣き声を何回も出してなにかを訴えかけるような泣き方をすることもありました。
泣きそうな顔で踏みとどまっているような表情を見せるときは、目を見ながらあやすと笑顔に変わりました。きっと赤ん坊は、身の回りで知覚したものに対して、心の動きを表現しようとしていたのだと思います。心の動きを表情や仕草として出すことがまだ難しかったのかもしれません。
 
赤ん坊は起きているとき、絶えず色んなところを見ていました。そこで何かを知覚して、それに対して反応しようともがいていたように見受けられました。
この頃の赤ん坊は、身の回りにあるものを知覚して、ようやく認識できるようになってきて、そしてそれに対して反応しようとしていたのだと思います。
赤ん坊を見ていると、この知覚、認識、反応というプロセスがとても緩やかで、その緩やかさがとても新鮮に感じられました。
 
それはかつて私たちもいた世界なのでしょうが、遠いむかしに置いてきてしまったもので、大人になった今では、知覚、認識、反応のプロセスはとても速いものになっています。知覚したあと、条件づけされた記憶に基づいて認識し、それに対して繰り返し行ってきた反応の仕方を当たり前のようにします。
赤ん坊の知覚、認識、反応のプロセスの緩やかさに接したこと、また参加者の方々とこの節について対話をしたことで、 上記「3.47」の状態というものがどのようなものかなんとなく実感できました。私にとって、それは知覚の喜びに満ち満ちた世界のあり方です。
 
ヨガスートラは、実生活の体験と結びつくことで、生き方をとても豊かにするものであると思います。しかし、冒頭でも書いたように、1人でヨガスートラを読むだけではそれは感じにくいことです。
○○先生の講座を受け、皆で考えを対話を重ね共有し合うことによって、ヨガスートラは生きた書物となります。
 
インド哲学やヨガスートラに少しでも興味をお持ちでしたら、複数名で一緒に学ぶことができるこの機会に参加されることを強くお勧めいたします。

2018/10/19

ヨガスートラの講座を受けて、その感想文を書くよう依頼があったので、ここにアイデアをまとめ、今日の日記とする。
 
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日本語訳でも数冊出版されているヨガスートラは、どの本を読んでも難解な印象を受けますが、通読すること自体はそう難しいことではありません。どの本も現代の状況に置きかえて丁寧に解説されています。ですが、本を読んだだけではこれほど手応えを感じない本もそうありません。それは、ヨガスートラが実践を、自らが体験することを強く要求するものであるからだと思います。
 
哲学書の類は、本を通読することで、哲学者が辿った思考を追体験することができるという意味において大きな体験の一つとなり得ますが、ヨガスートラは読むことが体験となるような書物ではありません。ヨガスートラを読むという体験自体に大きな意味はないと思います。
 
ヨガスートラは、読むことで体験するのではなく、読みながら体験するものです。ヨガをしながらヨガスートラを実践する。普段の生活でヨガスートラを実践する。これは、普段ヨガを学んでいる方には受け入れやすいものであるかと思いますが、実践する、体験するということはあくまで個人的なものに留まります。
 
ヨガスートラの講座では、ヨガスートラを読みながらその場で体験し、実践します。また、各々が体験したことを持ち寄って共有し合います。○○先生は講座のオーガナイザーであり、進行役を務められますが、○○先生も含めて皆でヨガスートラについて考え、実践します。
 
ヨガスートラを通じて体験・実践したことは、参加者によって大きく異なります。講座の中でのそれぞれの体験・実践について共有を行うことで、その体験・実践の意味は変化していきます。その体験は個人に留まらず、大きく膨れ上がった体験となります。本を読むだけではただ頭の中を通過していったものが、大きな体験として身体に・心に残ります。ヨガをすることで身体に変化が生じることに気づくように、ヨガスートラ講座の後には、講座の前とは変化が生じていることに気づきます。
 
ヨガスートラの講座を終えたいま、ヨガスートラに触れるということがいかに生活や考え方に影響を与えるものであるかということを強く実感します。冒頭に書いたように、1人でヨガスートラを読むだけではそれは感じにくいことです。
 
インド哲学やヨガスートラに少しでも興味をお持ちでしたら、複数名で一緒に学ぶことができるこの機会に参加されることをお勧めいたします。

2018/10/18

・赤ん坊2回目の予防接種。最近よく泣くので心配だったが、病院に連れて行った妻が言うには注射を受けたあと泣きに泣いていたらしい。計4回も注射を打たれ、血も出ていたらしいから、痛みもあっただろう。赤ん坊には申し訳ない気持ちもあるが、赤ん坊を病気から守るためだからここは我慢してもらうしかない。今はぐっすり寝ている。
 
・今日は父がプライベートで福岡に遊びにきていて、一緒に街中を見て回った。その途中、僕に話すのと同じような口調で電話で誰かと話しているので誰だろうと思ったら、弟だった。父と弟は社長と従業員という関係でもあるが、特に弟が思春期を迎えてから全く馬が合わなくなって、一緒の職場で働いていながら直接話しているところを最近までほとんど見たことがなかった。話す必要があるときは、たいてい母かたまに僕が間に入らなければならなかった。いつの間に直接電話で話すような関係になったのだろう。弟も小学生の娘を持つ親である、何か気持ちの変化があったのかもしれない。彼らが話さないのは、弟が話したがらないというのが大きかったが、父も意地を張っているようなところがあった。父から電話をしていたところをみると、父からの歩み寄りもあったのだろう。人が電話をしている姿を見て、これほど幸せな気持ちになったこともない。
 
・体調は日々変化している。今日は頭痛はほとんどなくなった代わりに、1日中耳鳴りがひどく、今も右耳の聞こえが悪い。神経質になっているだけかもしれないが、1つ1つの症状は体が発しているサインであるのだから、きちんと感じ取って早め早めに対処したほうがいい。とりあえず、今日も残り時間は野球を観ながらゆっくりしたいと思う。

2018/10/17

今日はホテルの日本料理屋の個室でお食い初めの儀式を行った。そこで母乳・ミルク以外の食べ物を初めて口に触れさせたわけだが、赤飯、魚、筑前煮、どれを口につけても嫌がる素振りは見せず、自ら舌を出してぺろぺろと舐めていた。一生食べ物に困らないように、という願いを込めて行う儀式のようだが、食べ物に対して拒否反応を示さず、好奇心を持ってくれてよかった。
お食い初めの儀式中はおとなしかったが、それ以降はお腹が減っていたのか、ぐずっている時間が多かった。母乳をあげてしばらくすると寝ていたけれど、起きるとまた泣いていた。外はだいぶ慣れてきているが、自宅以外の室内空間ではあまり落ち着かないようだ。
 
自宅に戻ると赤ん坊はとてもご機嫌にしていて、よく笑っていた。今日はだいぶストレスをかけてしまったかもしれない。来月は実家に泊まりに行く予定にしているが大丈夫か少し心配だ。
 
僕はというと、体調はまだ万全ではない。お食い初めの儀式でも、出された料理を全部食べるだけの食欲がなくて妻に少し食べてもらった。熱はなく喉の痛みはおさまってきたが、頭痛がひどい。ヨガと日記を書く気力はかろうじてあるが、考えることが億劫で、あまり動く気にもなれずにリビングで横になっている時間が多い。今は赤ん坊を近くで見ながら日記を書いている。妻や赤ん坊に迷惑をかけないように、早く体調を戻さなければいけない。

2018/10/16

今日は在宅勤務日だったが、赤ん坊がよく泣いていた。
 
午前中に1時間ほど眼科に行くために妻が外出したので、僕はモニターを見ながら別の部屋で仕事をしていたのだけれど、赤ん坊がカメラを掴もうとして動くので、画面が赤ん坊をとらえない。仕方がないから、PCを持って赤ん坊の部屋に行き、赤ん坊の視線に入る場所で仕事をしていると喃語を発してしきりにうったえかけてくる。そうなると僕も放置することはできない。とりあえず一旦PCを閉じて赤ん坊と触れ合うことにした。これがいけなかった。
 
数分赤ん坊と遊んでPCを開けて赤ん坊の目の届くところで仕事をしていると、赤ん坊の喃語はどんどん大きくなってきて、声で返事はするのだけれど、それでは満足してくれないらしく、喃語は次第に泣き声へと変わっていった。一度泣き声へ変わると、あとはもう何をしても泣きっぱなし。仕事をしながら片手間にあやそうとすると、「なめんなこら」ってな感じで、わなわなと唇を震わせて最大音量で泣き始めた。それでも片手間にしかあやすことはできない。妻が帰ってくるまでなんとかごまかしてあとは妻に任せることにしたのだけれど、それ以降、機嫌がよくなる時間があっても長続きせず、1日中よく泣いていた。育児なめんな、と忠告を受けた感じだ。
 
 
おそらく今日一番機嫌が良かったのは、僕と一緒に本を読んでいたときだと思う。以前も書いたが、赤ん坊は本が、というか文字が好きだ。レシートを見せるだけで大喜びする。
 
昼休みに町田康の『ギケイキ2』を読んでいると赤ん坊が気になっている様子で、腕はきつかったが、体を仰向きに寝かせて赤ん坊と一緒に読めるように本を持ち上げて読んだ。すると赤ん坊は文字を追っかけていて、手足をバタバタさせながら超ご機嫌になった。観察していると、その文字の追い方は、どっちかというと視線を「置く」感じで、上から下に視線を移していくのではなく、広げた2ページの中から気になる文字を見つけているようだった。気に入った文字があると喜ぶのだろう。文字を文字で認識しているのではなく、ただ面白い何かとして文字を見ているのだと思うが、文字の何が惹きつけるのだろう。本好きとしてはとても気になるところだ。
 
このまま成長して、ぜひ本好きになってもらいたいものだが、そこに至るまでの過程、そう遠くない未来ではきっと本を破りまくるだろう。本を見つけては破る、本を見つけては破る。赤ん坊あるあるのようだが、僕にとっては悪夢でしかない。本の整理もしなければいけない。