Life Itself

生活そのもの

2018/05/23

今日は弟の誕生日だ。30歳になる。ドライバー(ゴルフクラブ)のヘッドカバーをプレゼントとした。仕事を通して知り合ったお客さんともよくゴルフに行っているようだ。

 

佐世保に住んでいる弟とはわざわざ電話をして話すことはほとんどないが、仲が悪いわけでもない。10代の頃はよく喧嘩していたが、二十歳を超えたあたりから喧嘩することもなく、ほとんど距離感が変わることがない。互いに関心はあるが、あまりにも性格が違いすぎるせいか、歩み寄ってこれ以上仲良くなろうとはしない。会ったらそれなりに話はするし、ちょうどいい距離感を保つことができているように思う。

弟が30歳を超えたというのも不思議な感じがするが、僕が30歳を迎えたのもついこの間だった。そんな気がするが、それから既に数年が経過している。最近では自分の歳がいくつなのかよく分からないことがある。20代の頃と較べて、自分の年齢のことはどうでもよくなってきている。

 

弟の結婚は早かった。所謂出来ちゃった婚で、姪ももう9歳になる。出産・育児で言えば、弟は人生の大先輩だ。数ヶ月前に会った時に当時のことを色々と聞いてみたが、あまり覚えていないと言っていた。周りが遊び盛りの時に、育児と仕事を両立して頑張っていたのだから大変だっただろう。今になって初めてわかる。

2018/05/22

2週間に一度の定期検診の日だった。検査時にお腹の中の赤ん坊が寝ていて、今回も性別が判明せず。お股はしっかりと開いていてコーヒー豆のような形があったとのことなので、ほぼ女の子だと思われるが、まだわからない。どちらでもいい、出産時に対面するときにわかればいいのだ。

体重は2000グラムを超えたそうだ。最近はいよいよだなぁと感じがしている。さすがに少しずつ覚悟もし始めている。母子ともに健康に産まれてくれさえすればいい。とは思うが、それも大変なことなのだ。あまり軽い言葉で言うことはできない。母子ともに健康に産まれてくるように、心から祈る。

 

妻は今1人で歩きに行っている。やたらと体重を気にしている。もともとが細身で、しかもヨガで鍛えていたので、今の体重が許せないようだ。4キロは歩くと言っていた。何もなければいいが。少し心配だ。

 

出産が近づいてくるにつれて、考えていることのほとんどは妻の体調のことだったり、産まれてくる子どものことになりつつある。数週間前まではレコードのこともよく考えていたけれど、最近はその割合が減ってきた。

本は志村ふくみさんのエッセイとメルヴィルの白鯨を毎日少しずつ読んでいる。最近は本もあまり買っていない。つい先日、本を売りに行った時に、武満徹さんの『時間の園丁』を見つけて購入したくらいだ。

心は未来の1点のみを向きつつある。

 

2018/05/21

行きつけのカフェに行って、昨年11月に産まれた娘さんの話を聞いてきた。

産まれたすぐ後、1ヶ月後、2ヶ月後と、1ヶ月毎にその経過を写真で見せてくれた。どの写真もとても可愛らしかったが、生後3ヶ月になると笑顔が増えて表情が豊かになり、さらに可愛く見えた。生後半年が経過した今では、完全に女の子の顔になっている。

産まれて月日が経てば経つほど表情も豊かになり可愛らしくなるが、産まれてからすぐの頃は色々と大変なことも多いけれど、今になって思えば貴重な日々だったとマスターは言っていた。他人の話として聞けば、それはそうだろうと思ってしまうものだが、僕らも間もなくその時期を経験することになる。簡単に納得して話を流してしまうのではなく、貴重な助言として受け入れて、夫婦で話し合わなければならないことだ。

出産後は時間に追われることは致し方ないかもしれないが、いかに目の前の時間と向き合うようにするか。今風の言葉を使えば、マインドフルネスに時間を過ごすか。大人になるとすぐに時間は過ぎ去ってしまうが、赤ん坊や子どもにとっては時間は濃密でとても長く感じるものだと思う。たとえ子どもは将来その時間を忘れるとしても、できる限り赤ん坊と同じように、すべてが初めて体験するものであるかのように濃密な時間を一緒に過ごしたい。

2018/05/20

ヤフオクドームの外には、著名人の手の銅像が並んでいて、「暖手の広場」と呼ばれるエリアがある。今日久しぶりにそこに行って、色んな人の手の銅像と握手をしてきた。

 

藤子不二雄Aの手は結構大きくガッチリしていて、藤子・F・不二雄の手は小さくて華奢だった。原田知世の手は、小さいが、指が細長くてとても綺麗な手だった。驚いたのはPaul Simon。妻の手と同じくらい小ぶりな手だった。あの手から様々な名曲が生まれているのか。

 

握手した時の手の感触というのは残りやすいような気がする。10年ほど前に亡くなった祖父とは、家に遊びに行ったときには帰る間際に必ず握手するようにしていて、何度握手したかわからないが、今でもはっきりと手の感触を思い出すことができる。

The BandのLevon Helmとはたった一度だけ握手しただけだが、僕の思い入れもあってか、今までで一番印象に残る握手だった。思っていたよりも手が大きくて、力強い握手だった。

Solomon Burkeとも握手したが、大きな手でとてもあたたかった。

 

握手は人と挨拶する際の世界共通の行為だと思う。だが、日本では他の国と比べると握手する機会は少ない。祖父と毎回握手していたのは、祖父が「シェイクハンズ」をグローバルな挨拶の行為として、僕ら孫に示していたからだ。そのおかげで、祖父の手の感触が今でも残っている。対して、大好きだった祖母の手はあまり思い出すことができない。はっきりと覚えているのは、亡くなる前にさすった時くらいだ。そのときには、とてもか細い手になっていた。

数ヶ月アメリカに行った時は、何度も握手をした。人と会ったらとにかく握手。中にはもう忘れてしまった握手もあるが、はっきりと覚えている握手の方が多い。人の顔と同じくらい、手というのは印象に残るものだ。

日本人はもっと握手をした方がいい、とまで言うことはできないけれど、少なくとも祖母に対しては祖父と同じように握手をしておけばよかったと今になって少し後悔している。握手という行為を教えてくれた祖父には感謝したい。アメリカでは何度も握手をしたが、それはアメリカにいたから。日本にいると、人と握手するのは少し恥ずかしい。こっちから手を差し出すのは勇気がいる。だが、今日「暖手の広場」に行って、色んな人の手の感触を思い出し、もっと人と握手をしていきたいと思った。

2018/05/19

土曜日は毎回仕事の忙しさに追われることしか書いていないように思うが、今日も(変な言い方だが)安定して仕事が忙して、いつの間にか定時を迎え、夕食を食べ今に至る。ただ、今日は仕事後にちょっとした良いことがあって、仕事後、天神をぶらついていると、小学校時代の同級生に偶然会った。佐世保と福岡、そんなに遠い距離ではないけれど、なかなか会うこともないだろう。電話しながら歩いていると、向こうが気づいてくれた。1年ぶりとそんなに久しぶりでもなかったけれど、会えて嬉しかった。

 

ジョン・セバスチャンの歌声がとてもいい。『Real Live』を聴いている。「Darlin' Be Home Soon」はいつ聴いても最高だ。

 

今から妻と公園に歩きに行く。

2018/05/18

急に暑くなり、また湿度も高くなったことからなかなか快適に眠ることができずに、妻はしんどそうだ。体を冷やすのも良くないので扇風機で我慢するしかないのだが、眠りの質がどうしても落ちてしまう。今日も帰宅すると、妻は横になってきつそうにしていた。僕もこの湿気は苦手だ。

しかし、出産予定日は7月1日である。おそらくはまだ梅雨も明けていない時期、今よりもさらに不快な気候だろう。マイナスなことを考えても仕方がないが、覚悟をしておく必要はある。

会社の色んな人から、妻の体調を心配する声を掛けてもらっている。何気なく聞いてくれているのだとしても、とても有り難いことだ。もうすぐ出産を迎えるというのは、不安であり、楽しみであり、待ち遠しくあり、しかし今の時間が惜しくもあり、と複雑な気持ちだが、人に話すことで少しポジティブな気持ちに傾いていく。

 

昨日、今年はじめてのびわを買った。福岡の糸島産だ。今まで長崎の茂木びわばかりを食べていたが、糸島産のびわも美味しい。長崎で育ってきたが、びわは贅沢品であまり食べたことがない。僕にとっては一番好きなフルーツだ。

 

季節を感じやすい1日となった。

2018/05/17

最近、妻の運動に付き合うために夜中に公園へ散歩に行くことが多く、僕は散歩している間、一眼レフを持って写真を撮りまくっている。赤ん坊が産まれた後にできる限り綺麗な写真を撮ることができるように練習する意味と、もちろんその夜中の散歩を記録する意味がある。

被写体になるのは、時々妻と、主には公園の風景である。湖に映えた建物のネオン・雲や、ライトに照らされた木々など、被写体にできそうなものを見つけて、とりあえず撮ってみる。最初は液晶モニターを見ながら撮っていたが、歩いている内に汗をかいてきて、液晶が鼻の油で汚れてしまうので、ファインダーを覗いて撮る。ほとんどカメラを触ったことがない素人が撮るので、ぶれてしまいとても見ることができないものであったり、構図が悪すぎてなぜそれを撮ったのか自分でもわからなかったり、とにかくまともな写真はほぼ1枚もない。それでも楽しく撮っている。

しかし、被写体の見つけ方というのか、なぜそれを撮る対象としているのか、明確な理由がないのである。言葉にできないだけでなく、そこにあまり感情が反映されていない。歩きながら景色を見て、知覚する。ある景色を対象として認識する。そしてその対象に対して反応する。その結果が写真という形として具現化する。その反応が何にも拠っていないのである。強いて言えば、教本にあるような写真を試しに撮ってみたいという気持ちがあるということだが、そこには何も感情はない。

持っている数は多くないけれど、1年に1回は写真集を買うようにしている。購入した写真集を眺めていると、何気ない洗濯物を干した日常の東京の風景であっても、東京ではない佐世保の祖母の田舎や、宝塚でたまたま通った通りや、亡くなった祖母の話し声や、道端でたまたま出会って餌をあげた猫、働いていたゴルフ場の草の匂い、写真の風景と関係なく様々なことを思い出し、想うのである。写真に喚起性があると言ってしまえばそれまでだが、眺めている写真の更に奥には普遍的なものがある。そういう写真を見て気づくのである。目の前の風景にどれだけ見逃しているものがあるのか、目の前の何気ない景色の中にどれだけ圧倒的な情報があるのかということを。目の前にあるものを何の偏見もない目で見れば、どれだけの気づきがあるのか。写真家は少なくとも、目の前の景色をしっかりと見て、それを四角形の写真に切り取っている。

僕は写真を撮る時、まだありのままの景色を見ていない。向き合っていない。ただモノとして撮っているだけだ。そのことに気づいてはいるが、あまり見ないということが習慣化してしまった今、しっかりと見るということは、かなりの意識付けが必要だと思う。赤ん坊が産まれたってそうだ。景色をしっかりと見ることができないのに、どうして我が子を見ることができるだろう。

産まれるまであと1ヶ月少し。習慣化されてしまったものを少しずつでも解消していく必要がありそうだ。