Life Itself

生活そのもの

2019/07/30

数日前に保育園で娘が歩いたと書いたのだけれど、その翌日、仕事中に妻から歩いたところを見たとメッセージがあった。しかも、祖母の家に行って、祖母と叔母がいる前で歩いたらしい。僕よりも先にいろんな人が娘の歩く姿を目にしている。いったい僕が娘の歩く姿を見るのはいつになるのだろうと思っていたら、その次の日に歩く姿を見ることができた。

歩くというのは、きっと立った状態で重心が前にいって、歩いたというよりは足を前に出したというだけのことだろうと思っていたのだが、見てみると本当に歩いていた。足を前に出すだけというのはそうなのだが、それは重心が前に行った結果ではなく、娘自身の意志で足を前に出していた。

立つことができる時間がどんどん長くなっている。気づけば立っている。何かに掴まることなく、自分の二本足だけで立っている。僕らが目の前にいると、バランスをしっかりと取りながら足を一歩前に出す。右足だけ。これは一歩歩いたと言って間違いないだろう。その日、右足でなくその後左足まで出していたので、二歩歩いたということになる。

立つ時間は日を経るごとに長くなっているような感じがするが、まだまだハイハイして移動し回る時間の方が長い。ハイハイする姿は結構豪快で、手をバタンバタンと床に押し付けるようにして、どたどたどたと重低音を響かせながらハイハイをする。両手両足、そして全身を使ってこんなにいい重低音を出すことができるのであれば、もしかするといいドラマーになるのかもしれない(ヨラテンゴのアイラみたいなドラマーだったらいいなぁ)。ハイハイするときはたいてい笑顔だ。笑顔でハイハイするその姿はとても可愛らしい。

歩くようになると、ハイハイはしなくなると聞いた。もうすぐハイハイの姿が見納めになるかもしれないということだ。それは寂しい、とても寂しいことだ。これまで寝返りからズリバイ、ハイハイへと移っていったけれど、それはとても嬉しいことである一方で、どこか寂しくもあった。もうハイハイを見ることはできなくなるのか。ハイハイを見ることができなくなる喪失感は、これまでの比ではないかもしれない。

もっともっと、ハイハイの姿を動画として撮っておこう。