Life Itself

生活そのもの

思考が働いていることに向き合う時間

・赤ん坊の熱は39.0度。さすがに心配である、というかずっと心配している。心配ばかりしているから妻は少し(かなりか)うざそうにしている。気持ちはわかる。だが、心配なもんは心配だ。自宅勤務をしているが、赤ん坊のことが気になってつい様子を見にいってしまう。

心配はしているが、赤ん坊はとても元気である。はいはいしてつかまり立ちして喋って歌って。さすがに食欲はあまりないし、散らかり具合もいつもよりはマシなので多少キツさを感じてはいるのだろうが、そんなことは全く感じさせずに僕らには愛想よく接してくる。 突発性発疹なのか風邪なのか。医者もわからないと言っているのだから考えても仕方がないが、大したことがなければいいのだけれど。ほら、また心配している。

・昨日、瞑想の間の10分というのはいつも同じ長さの10分だと書いた。 瞑想の間は思考は働きまくりなのである。考えている内容によってはその思考が長く続いて、10分の時間を短く感じても良さそうなものをそんなことはない。 しかし考えてみると、思考が働いていることに向き合う時間というのは、実は1日の中ではとても短い。ほとんどないのではないか。仕事をしているときは考えてはいるが、その考えに向き合っているわけではない。仕事に対してその考えを注入している。頭の中で考えがとどまるということはほとんどないのだ。帰宅してからも、ご飯を食べているとき、妻と話しているとき、赤ん坊と遊んでいるとき、そんなときは考えているわけではない。自由な時間、テレビを見ているとき、映画を見ているときというのは考えが入り込む余地がない。ただ没入している。タルコフスキーの映画やドキュメンタリー映画だと多少考えるかもしれない。本を読んでいる間というのは、ほとんどの時間を考えている。小説であっても考えている。物語に入り込むということはあんまりなくて、物語の途中で立ち止まりながら考える。 あとは風呂に入っている時間と寝る前の時間くらいか。ただ、寝る前の時間に考え出すと際限なく考えてしまうので、できるかぎり考えることがないように漫画を読みながら寝落ちするようにしている。風呂に入っている時間だけはずっと考えているかもしれない。頭を洗って血流が良くなるからか、次から次に考えが浮かんでくる。たまにいい考えが浮かぶこともある。

本を読んでいるときと風呂に入っているとき。1日の中で考えている時間というのはこれくらい、あ、あとはこの日記を書いているときか。やはりとても短い。

瞑想ではできるかぎり思考が働かないようにするが、思考が働いている時間、それに気づく時間というのも実はとても貴重な時間なのではないか。だから思考が働いていても10分の時間の長さは変わらない。思考が働いている、そのことに気づく貴重な10分間。思考が働くことは何も悪いばかりではない、それに気づいて思考と一体化さえしなければ。それはとても難しいことだけれど、だからこそ思考が働いていることと向き合う瞑想の時間をもつというのは大切なことなんじゃないかと昨日の日記を書いてから考えた。