Life Itself

生活そのもの

赤ん坊を見ること

目を離すことができなくなったことから、今まで以上に赤ん坊を見るようになった。見るというのは、スマホを操作しながら、または本を読みながらというわけではなく、遊んでいる赤ん坊をただ見るというだけだ。
赤ん坊を見ていると、見られている赤ん坊は視線を感じるのか、僕と目が合う。そして、手元のおもちゃを触りつつも、まだ見られているのかを確認するためにか何秒かに一度僕を見る。見られていることを確認するとまた手元のおもちゃで遊ぶ。


たまに赤ん坊と数十秒間見つめ合うことがある。別に2人とも見つめ合って何をするということでもない。表情を変えることもほとんどしない。見つめ合うだけだ。見つめ合っている間、僕の思考は働かない。見るだけでそれ以上もそれ以下もない。
この赤ん坊を見る時間、そして見つめ合っている時間というのは、瞑想的であると思う。思考が働かないというだけでなく、波のない穏やかな状態。


繋がるということばは違う。前にも書いたが、簡単に「繋がっている」などと言いたくない。無理やり言えないこともないかもしれないが、赤ん坊との間に一体感を覚えているわけではない。ことばにするならば、関係性か。別にことばにする必要もないのだが。


見ていると赤ん坊はあまりはしゃぐことなく、ただじっとおもちゃで遊んでいる。スマホを触りながら、本を読みながらだとそうはいかない。赤ん坊ははしゃいでアピールをしてくる。私をちゃんと見てということか、きっとそうだろう。ただ見ているときにもはしゃぐことはあるが、そこまで派手にはしゃぐことはない。


何が言いたいというわけでもないけれど(だって日記だし)、最近赤ん坊を見ているときは、一番心が穏やかな状態になっているように思うし、僕の心が穏やかになっているということは赤ん坊も心が波立っているということもないんじゃないだろうか。これからも何かをしながら赤ん坊を見るということは止められないだろうが、ただ赤ん坊を見る時の穏やかな状態のことは覚えておきたいと思う。