Life Itself

生活そのもの

イチローの会見を見て

昨夜、最後までイチローの会見を見た。
イチローは途中でこんなことを言っていた。「人と比較して頑張ることはできない。あくまで秤は自分にある。自分の限界を見て、自分なりに頑張ることを積み重ねていく。それしか自分を超えていくことはできない。」
常人では考えることできないほどの努力を積み重ねてきたであろうイチローのこの言葉に対して勝手にいろいろと書くのはおこがましいかもしれないが、この言葉を聞いていつかヨガの先生から言われたことを思い出したり、少し考えたりしたことを書いておきたい。書かないと忘れてしまう。
 
自分がしている努力の量、あるいは質は、どうしても人と比較してしまいがちだ。少なくとも僕はこれまで何度も努力の程度を他人と比較してきた。他人とあまり比較しなくなったのは、おそらくヨガと出会ってからだとは思うが、それでも他人と全く比較しなくなったということはない。気づけばどこかしらで比較してしまう自分がいる。
 
他人と比較してしまうのは、その方が努力の程度がわかりやすいからだと思う。特に努力の量だと、わりと簡単に他人と比較することができる。中高と6年間寮生活していたとき、僕は自習室で周りに座っている誰よりも長く勉強しようと考えていた時期があった。勉強の長さ=努力の量で、長ければ長いほどいいと考えていた。寮監や教師からも人より2倍、3倍努力しろと、その努力の量を他人と比較して推し量るようなことを言われていたように思う。誰よりも長く勉強するというのは、それだけで優越感があるものだ。しかも、それで結果が出るものだから、他人と比較しての努力の量は絶対的なものだと思っていた。
 
他人と比較せずに、自分の中での秤を見ながら頑張る。これは捉えようによっては、他人という尺度・競争相手がなくなるわけだから、張り合いがなくなって、ひと安心つくような気持ちになってしまうかもしれない。だが、自分の秤というほど大きく、見えづらいものものはないことに次第に気づくだろう。自分の中の秤というのは、自分でいくらでもごまかしが効く。自分次第で大きくもなれば、小さくもなる。
ヨガの先生は、タバコをいつになっても止めることができないでいた。周囲にタバコを止めると宣言して一度は止め、すぐにまた再開するというのを繰り返していた。だが、ある日自分の視線というものに気づいた。他人をごまかすことができても、この自分の視線をごまかすことはできない。この自分さえごまかすようになったときは、それは自分が死ぬときだ、そう思ってタバコを止めようと思ったら、止めることができた。これはヨガのレッスンの中で何度も聞いた話だ。自分の行為は、自分が必ず見ている。
 
頑張るということも、その内容を一番見ているのは自分自身だ。秤をいい具合に調整することもできるだろうが、その行為は自分自身が見ている。欺くことはできない。
 
自分なりに頑張るというのは、とても厳しい言葉だと思う。イチローは、自分なりの頑張りが必ずしも正解であるとは限らず、間違っていることを続けている可能性もあると言っていた。そうやって遠回ることでしか本当の自分に出会うことはできない、と。一気に高みを目指すのではなく、遠回りや後退もしながら、地道に自分なりに頑張っていくしかない、と。
 
毎日自分なりの頑張りを続けていくということがどれだけ大変なことかということは少しだけわかる。僕はいくつも毎日やり続けようと心に決めたことがあるが、続けることができているのは、このブログしかない。その他は途中で続かなくなってしまった。止める瞬間というのはとても嫌な気持ちがするものだが、その次の日にはやらないことが当たり前になっている。やらないことに対してなんとも思わなくなる。自分に対する偽りどころか、最初からないものとするのはとてもタチが悪い。このブログが「頑張る」ことであるかはとても微妙なところだが、毎日書くのが面倒くさいと思いながらも、とりあえずPCの前に座ることを続けている。日記でも何でも、書き続けることで見えてくるものはあるものだ。とかっこつけて言ってみるものの、現時点ではっきり言うことができるのは、僕は自分なりに頑張ることは全然できていなくて、日々自分を偽りながら生きているということだ。