Life Itself

生活そのもの

不快な音

平成31年4月6日。
 
娘は掃除機の音や、電動コーヒーミルの音を立てるとあからさまに嫌な顔をして、数秒それが続くと泣いてしまう。先日にも書いたばかりだが、それは不快だという感覚だと思う。音がただの音ではなくて、意味を持つようになってきた。新生児の頃は救急車の音で泣いていたが、それは音に対する不快いうよりは、眠りを妨げるほど音が大きいということに対してのものだと思う。掃除機や電動コーヒーミルは音の大きさよりも音の性質、音そのものに対して不快感を覚えているのだろう。
 
音への不快な感覚。僕にとっての不快な音はこれまでに何度も書いてきたように、耳鳴りである。音と言っていいものかは微妙なところだが、たぶん音に入れていいものだろう。
 
耳鳴りを不快に感じる理由を人に説明するのはとてもむずかしい。病院に行くと、どういう耳鳴りですかと聞かれるが、どう答えればいいかわからない。高いキーンとした感じですか、と問われればハイとしか答えるしかないのだが、キーンにもいろいろある。擬音語として表すなら、ズーンというのもあればツーンというものあるしボーというのもある。僕はイメージしながら擬音語を書いているが、たぶんそれを経験したことのない人にはどういうものかさっぱりわからないだろう。
 
耳鳴りには大きく分けて2つある。文字通り鳴っているものと聞こえるもの。聞こえるというのは変な言い方かもしれないが、外の現象として聞こえるもの。耳鳴りだからもちろんおそらく体の内側で発生した何かであって、外で聞こえているものではないのだけれど、対象として聞こえるものといえばいいだろうか。一時的で数十秒もすれば聞こえなくなる。
対して鳴っているものは、基本的はずっと鳴り続けている。その音は大きくなったり小さくなったりする。ずっと不快に感じているわけではない。気にならないときにはほとんど気にならない。ただ、体調が悪いときにはその音は大きくなって、いわば雑音として不快に感じる。ひどいときにはそれが何日も続くときがある。
 
耳鳴りはときに不快を通り越して恐怖に近い感覚になるときがある。それは臆病な僕の性格によるものかもしれないが、鳴り止む気配がないとき、そしてめまいなど別の症状を伴って発生するときにそう感じる。恐怖に近い感覚になったら何もできなくなる。仕事をしているときには、一旦トイレに行って落ち着かせる。家の中にいるときにはすぐに横になるか、くだらないバラエティ番組を観て感覚を麻痺させる。瞑想して逆にその耳鳴りに集中することで恐怖を取り除くこともある。何にせよ、その恐怖と自分を離すよう努める。コントロールできているわけではない。
 
妻にも耳鳴りのことを何度も説明しようとしてきたが、うまくいった試しがない。そもそも人が感じる不快な感覚を他人に分かってもらうのは無理な話だ。僕はもどかしさを感じて不機嫌になってしまう。それを妻が察知して雰囲気が悪くなる。はっきりと伝えることができればいいのにといつも思う。
 
娘はいま、不快な感覚を表情と泣くことで必死に表現しようとしている。僕なんかよりもずっと上手に伝えることができている。