Life Itself

生活そのもの

どんどん表情が豊かになる

10連休ということで街にはどれだけの人であふれるだろうと思っていたが、考えていたよりは大したことはなくて、昨日なんかは普通の土日より人が少なかったくらいで、街に出ても普通に楽しむことができた。このGWで特別に何かをしたわけではないが、結婚式で帰省した2日間と仕事の1日以外はずっと赤ん坊と過ごすことができたことは良かった。
 
ずっと書くことを忘れていたのだけれど、最近赤ん坊はストローを使うことができるようになった。麦茶が好きで、今日は自分で麦茶のパックを持って飲んでいた。途中、少し麦茶が残ったパックを振ってチャプチャプ音を立てて楽しんでいて、楽しむことはいいのだけれど床に麦茶をこぼしてしまっていたので「だめだよ。」と言うと真顔で一瞬止まり、その後また僕の顔色を窺いながら、赤ん坊も顔の表情を微妙に変えて何かを僕に訴えるようにしてチャプチャプと振っていた。怒っているわけではないと笑いかけると一度眉毛をつり上げてじっと僕の目を見て、さらに満面の笑いかけたらつり上げた眉毛を落として目を三角にしてニコッと笑う。表情が豊かになっている。
 
赤ん坊の表情はことばを伴わない。その豊かな表情で何を伝えようとしているか完全にはわからないが、とにかく顔をあわせて目を見て表情を読み取ろうと努める。最終的には笑いかけて笑顔が返ってくればいいことにしている。
ことばがあったところで意図するところが完全に伝わるわけでもない。ことばを持たない分、赤ん坊はきっといつも僕らの顔をじっくり見ている。そして、僕らの表情を真似しようとする。赤ん坊の表情は、僕らの表情の一部でもあるのだろう。豊かな表情を僕らが作り上げたと言いたいのではない。豊かな表情は、赤ん坊が見ている豊かな世界の反映だと思う。赤ん坊は、見るものから僕らには想像できないほどの豊かな情報を得ているのだろうと思うが、もっといろんなものを見せてあげたい。ことばを持たない状態で、複雑で多様な世界を見てほしい。これから保育園に行くようになって、他人の存在を強く意識することだろう。他人を意識することで赤ん坊の世界は少し変わってしまうかもしれない。ことばの存在も強くなるかもしれない。ことばが世界を分かつ前に、安易な考えかもしれないが、大自然の中に身を置いていろいろと見て感じてほしい。その機会を作るのは、親の大事な役目だと思う。