Life Itself

生活そのもの

突然鳴り始めたCDコンポ

平成31年4月21日。
 
つい先程の話である。よくつかまり立ちをしている場所だが、初めてその存在を認識したらしい赤ん坊が、CDコンポをいじくり回し始めた。出っ張っている部分が気になるのか、始めはボリュームコントロールのところを触っていたが、その他の場所も押したり触っているしているうちにいつのまにかコンポの電源がついた。そしてすぐに、中に入っていたままになっていたCDが再生を始めた。電源ボタンではなく、再生ボタンを押したのかもしれない。中に入っていたのは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.II』のサントラで、ELOのMr.Blue Skyが流れた。その瞬間、赤ん坊はその箱から音が鳴ることは想定していなかっただろう、ビクッとして大泣きし始めた。
 
初めてCDを自分で再生した日。なんでも初めてといえばいいわけではないだろうし、楽器を鳴らしたわけではなくただCDを再生しただけだ、その行為自体にほとんど意味はないだろうが、ものを見てそのものを面白そうな存在だと認識し、いじくり回す。玉手箱のようにいきなり音が鳴り始めてびっくりして感情が動く。その認識から行為にいたり、行為がもたらした感情の動きを目の当たりにして、心から感動してしまった。
 
以前もこのブログで書いたが、坂本慎太郎がアルバム『できれば愛を』のインタビューで語っていた「自分の爪が伸びることを愛と捉える」といったことを思い出すことがよくあって、昨日芝生を踏む赤ん坊の足を見てもそのことを思った。赤ん坊は目の前にあるものをしっかりと見る。わかりやすく大きいものを見ることもあれば、小さいものを見ることもあるが、変わらないのはしっかりとそれを見る。見るだけでなく触り、口に入れる。見るということは、対象と自分との間に少なからずの関係があるということだ。赤ん坊は1つずつ対象との関係を築き上げていっているが、赤ん坊の見るという行為を観察していると、その関係性はとても濃密のように見える。その関係は抽象的ではなく、とても具体的だ。その具体的な関係に対して、赤ん坊は愛を持ってさらに見て触って、さらに濃密なものにしていっているように見える。僕ら親に対してだってそうだ。赤ん坊の目を見ていると、純粋に真剣に僕らを見ていることがわかる。
 
その純粋さ、真剣さは僕ら大人にはないものだ。赤ん坊ほど真剣に見るということはできない。経験や判断で知らず知らずのうちに見るものを限定してしまっている。見る対象との関係は出来上がってしまっている。膠着しているのである。膠着した関係性をまたほぐして見るというのはとても骨が折れることだと思う。
 
真剣に見るということは、きっととてもむずかしいことだ。