Life Itself

生活そのもの

笑い返すということ。

ぐずっていない限り、赤ん坊は笑いかけるとたいてい笑い返してくれる。僕らから笑いかけられているということが、赤ん坊にとっては嬉しいことで、その嬉しいことの表れとして笑っている可能性が高いが、もしかすると既に僕らが言うところの愛想のようなもので笑い返してくれているところもあるのかもしれない。
赤ん坊が笑い返してくれるというのはとても嬉しいことで、笑い返しに僕もさらに笑い返して、それでまた赤ん坊が笑い返すという、どちらかがやめない限りずっとループして、笑い合い遊びのようになることがよくある。笑い返してくれると僕は心から幸せな気分になる、だからさらに笑い返す。赤ん坊はきっと、笑い返すと僕が幸せな表情をすることを知っている。赤ん坊は僕らのことをよく見ている。
 
大人になっていくにつれて、笑うということはどんどん複雑化していく。嬉しいかったり面白かったりすることの表れだけではなくて、実は反対に怒りの感情があるのに笑っていたり、嬉しくも怒りも何の感情も持っていないのに、ただ相手をいい気分になるためだけに笑ったり、相手を怒らせるために笑ったり。それだけ多様な笑い方があるというのは、笑うことの効果を物語っている。
そういった笑いは、赤ん坊に笑い返す表情とはやはりどこかが違っている。僕は赤ん坊に笑いかけるときには無理に表情を作ることはないが、大人の都合で笑わなければいけないときには表情を作る必要がある。作る表情にはどこか強張りがある。使わなくてもいい表情筋を無理やり使っているような感じだ。当たり前だが、作った笑いをたくさんした後は疲れる。
 
よく目が笑っていないと言うけれど、僕が赤ん坊に笑いかける時、赤ん坊はだいたい僕の目を見ている。嬉しい感情以外で赤ん坊に笑いかけることはないから、目が笑っていない表情になっていることはないと思うが、もし目が笑っていないとすれば、赤ん坊はすぐに気づくだろう。
 
本当は赤ん坊に笑いかけるときのようにいつも笑うことができればいいのだろうけれど、それはとても難しいことだ。さも大人の複雑化した笑いが悪いことであるかのように書いたけれど、それは僕がそういった笑いが苦手なだけで、悪意のある笑いでなければ、大人の笑いであっても笑いはある方がいいと思う。
赤ん坊のように、笑いかけられれば笑い返すのがあるべき振る舞いだと思う。だが、自分の行動を振り返ったとき、僕は笑いかけられても笑い返していないことが結構あるような気がする。それは先にも書いたように複雑化した笑いが苦手というのもあるし、単純に人見知りということもあるし、何より作り笑いをすることが好きではないし面倒くさい。ダメな大人だ。
 
赤ん坊に学ぶことは多い。笑い返されるということがどれほど嬉しいことか。考えれば当たり前のことだけれど、いちいちそこまで立ち返って考えることはない。
 
笑いかけられたら笑い返そう。