Life Itself

生活そのもの

2018/12/26

赤ん坊が産まれて、人間らしい生活になったと妻が言った。
 
それは赤ん坊のためのスペースを確保する必要が出てきたことにより、本やCDなど大量にあった僕の物が整理(処分)され、食器棚などで見栄えがよくなり、部屋の動線ができて生活しやすくなったということが妻の言い分なのだけれど、1日の時間がだらだらと流ることなく、きちんとした区切りができてメリハリが出てきたということもある。充実感が出てきたとも言えるし、赤ん坊が我が家の中心となることで安定したとも言える。小さいけれども、赤ん坊が重しとなって、僕らの生活を地におろしたのである。
 
昨年の今頃は、これから産まれてくる赤ん坊のことと、つわりで苦しんでいた妻のことばかりを考えていた。年を越せば我が家に新しい存在がやってくるという事実。それは、2から3になるというよりは、0から1になるということで、その事の重大さをどう受け入れればよいか戸惑いがあったように思う。その戸惑いは実際に娘が産まれてくる瞬間まであって、産まれた事実を目にすると受け入れる受け入れないの問題ではないということがわかるのだが、産まれた後も戸惑い自体はすっかりどこかになくなったかといえば多分そうではなく、僕の奥底にはまだ存在し続けているように思う。
 
上司は、子どもが産まれてからその存在を受け入れられるまで1年ほど要したと言っていたが、僕はすぐに赤ん坊のことを受け入れることができて(僕自身はそう思っている)、しかし戸惑いはまだ完全に消えたわけではない。
 
0から1になる存在に戸惑いを覚えていた昨年。今年は1となった存在がどのように大きくなっていくのかということへの楽しみと少しの不安がある。昨年の今頃も思いは未来にあったが、今年はもっと未来への指向性が強くなっているように思う。きっと、来年赤ん坊が大きくなっていくにつれて、奥にしまってある戸惑いも少しずつ小さくなっていくのだろう。
しかし、改めて考えると、その戸惑いは全く悪いものではないのである。親になる過程で生じるものであり、人は急に親になるわけではないということを示しているだけだ。親になることで割り切って整理したものはたくさんあるが、それはただ整理しただけでなくしたのではないということ、戸惑いとともに僕の中に閉まってあって、決して完全になくなるわけではない。たまに戸惑いを思い出してもいいのである。