Life Itself

生活そのもの

2018/10/04

今日も赤ん坊を連れて街へ行った。雨が少し降っていたので、ベビーカーにレインカバーをかぶせて。
 
ベビーカーを押しながら歩くことで、今までは認識することがなかった道路の状態を認識するようになることを以前書いたが、今日街に出ていって、その音のうるささを認識した。
電車が来るときの音、トラックや車が走る音、店の中のBGM、人の話し声。街の中はとにかく音に溢れ、またその音量が大きい。うるさい。妻はデシベルデシベルと呪文のように何回も言っていた。
今までもうるさく感じたことがなかったわけではなかったが、赤ん坊と一緒にいると、より神経質になる。
 
赤ん坊と一緒に行動すると、赤ん坊の感覚がどれくらい敏感かはわからないが、彼女の感覚にあわせようとして行動するようになってくる。今まではないことにしていた、もしくは気づいていなかった音や臭いや地面の障害などの、感覚を刺激してくるものすべてを拾うようになってきた。神経質になりすぎなのかもしれないが、それはそれで新鮮で楽しいものである。敏感に感じ取っているとは言っても、なにも浴びるようにただ受け止めているのではなくて、うるさいものをうるさいものとして、臭いものを臭いものとして、地面の凸凹を凸凹として認識しているだけのことである。その存在を認識しても、やり過ごす方法は知っているので、ほとんどダメージにはならない。ただ、赤ん坊はやり過ごす方法がわかっていない可能性があるので、僕ら親が赤ん坊とできる限りの同じ敏感さで認識して、赤ん坊にあまりダメージがないように行動していかなければならない。
 
親としての責任というのはいろいろあるだろうが、今僕ら親が感じている責任の1つは上に書いたようなことである。
 
まぁでも、僕らが赤ん坊にとって障害だと思っているものであっても、実は赤ん坊にとっては親しいものである可能性も大いにあるのだけれどね。僕らは心地よいものと不快なものがあるとしたら、それを受け止めたあとに一旦分けて、理性で認識するが、赤ん坊は分けずに受け止めているのではないだろうか。それはカオスだが、とても豊かなものであって、心地よいと不快なものを分ける前のその間にこそ、なにかがあるような気がする。