Life Itself

生活そのもの

耳鳴りで始まる1日

ひどい耳鳴りの音で起きた。目覚めとしては最悪だ。起床1時間前に赤ん坊が泣いて起きたが、赤ん坊の泣き声で起きても気分が落ち込むことはない。耳鳴りというのは、僕だけかもしれないが、すぐに感情と結びつく。不快な負の感情だ。朝から僕はその心の働きを鎮めることができない。
 
仕事をしている間はまだ良かった。特に午前中からランチの流れは悪くはなかった。割と順調に仕事が進み、ドトールでランチブレイク。若竹千佐子の『おらおらひとりでいぐも』、鹿子 文の『へろへろ』を読んだ。『おらおらひどりでいぐも』は既に物語の終盤である、今日読んだ箇所はとても上手くいったときの瞑想と似た感覚が文章として表現されているように感じて思わず折り目をつけた、
『へろへろ』はモンドくんとボギーさんがでてくるところ、ボギーさんってそんな凄いことを考えているんだなんて感心。いい本を読んで気持ちよくなりさあ昼からも頑張るかなんて思って仕事を再開すると、息つく暇もなく次から次へと仕事がやってきた。まったく余裕がなかった。余裕がないうちはまだいいのである。没頭している状態。自分が呼吸していることが全く意識にのぼらない状態。トイレに生きたいと思った次の瞬間にはそれを忘れ、いやないことにしているような状態。そんな状態のときは蓄積されていく疲れにも鈍感になっている。終業のベルが鳴る。ちょっとだけ残業。PCをシャットダウン。解放されて、目の前に座っている同僚と話す。話している最中にひどい耳鳴りが発生。それから今に至る。耳の調子は悪いまま、身体は疲れているが、心は活発に働き、それを鎮めることができないでいる。こんなときこそ、チッタ・ブリッティ・ニローダハだ。チッタ・ブリッティ・ニローダハ、チッタ・ブリッティ・ニローダハ、チッタ・ブリッティ・ニローダハ。呪文のように唱える。やっと呼吸に意識が向くようになってきた。今日は早めに寝て、明日に備えることにしよう。明日は在宅勤務。
 
妻と赤ん坊は、今日育児サロンに行った。そこで赤ん坊はさんざん泣かされたらしい。他の赤ん坊に髪の毛を捕まれ、おもちゃで叩かれ、大泣きした。どれくらい大泣きしたかは想像できる。僕が帰って顔を見せたときには、とびっきりの笑顔で迎えてくれたが(それがどれほど嬉しかったことか)、その後はグズる時間が多かった。大泣きもした。
赤ん坊にとっても嫌なことがあって、大変な日だったかもしれない。赤ん坊の記憶というのは、脳内のどのような場所に保存されて、どのようなときにそれが開かれるのだろう。記憶というよりは、思い出というべきか。嫌な思い出は、その後思い出されることはあるのだろうか。ある思い出がことばで思い起こされることはあるが、思い出は必ずしもことばと結びついているわけはない。何かを見たり、何かを食べたり、何かを聞いたりすると、思い出が蘇ることはあるのだろうか。そのとき、赤ん坊はどのような感情を抱くのだろうか。思い出は何かしらの感情と結びついていることが多いが、その感情が蘇るのだろうか。
 
まだ僕の脳内に赤ん坊のときの記憶が保存されているとして、何かの折に、思いがけずもそこに触れるということはないだろうか。もし触れることがあるとして、僕はそれをそのとき抱いた感情とともに思い出すのだろうか。赤ん坊の感情と今の大人の感情。きっとそれはまったく違うものだろう。僕は赤ん坊のときの感情をきっと持て余してしまう。娘の姿を見ていると、んな気がする。