Life Itself

生活そのもの

NEW DIMENSION

昨日の「つながる」ということばを使うことのためらいの続きの話になる。
 
言うまでもないことだが、今ではネットを利用することであらゆる情報がすぐに手に入る。知らないことにぶち当たってもスマホですぐに調べればいいことだし、Google Earthなどを使えば、自分がこれまで行ったこともない地球の反対側の街の様子をうかがうことだってできる。僕も毎日使用しているが、Spotifyなどでわざわざ冒険してCDを買わずとも新しい音楽を知ることができる。情報はすぐに手に入る。この情報がすぐに手に入るということが、「つながっている」ということばに、一つの実感を与えているのかもしれない。ネットで検索して得た情報でわかったように感じ、Google Earthでそこに行ったような気分になり、「つながり」を感じる。ネットを使えば、調べものをする時間や、地球の反対側まで行く時間などを省略して、目的にたどり着くことができる。だが、昨日書いたように、僕は目的に至る過程こそを大切にしたいと思っている。
 
石川直樹さんのトークショーに参加してきた。そこで石川直樹さんが語っていたことが、「つながる」ということばに対してもやもやとしていた一部分をすっきりとしてくれて、大いに刺激になった。
僕は脚立の上に立つことさえできないほどの高所恐怖症だから、石川直樹さんのように高い山に登ることは一生できないだろうが、時間旅をすることはできる。石川さんはご自身のことを冒険家でもなければ探検家でもないと言っていた。石川さんの話を聞くかぎりでは、行く場所はさして重要ではない。旅をすることで、場所に行くまでの過程を自分の足で経験すること。その経験をすぐに情報に置き換えることなく、ことばとして分かつのではなく、判断することなく、身体をもってその場でしっかりと向き合うこと。見ること、感じること。
 
石川さんの話を聞きながら、最近旅をすることはできていないなぁとは思ったけれど、毎日赤ん坊と接することは、何にも代えがたい経験なのだと思った。
赤ん坊と接していると、僕ら大人にとって当たり前のことは、僕らが生きてきた中で勝手に当たり前にしてしまったことだということに気づく。赤ん坊にとって当たり前のことなんて一つもなくて、赤ん坊にとっては目の間にあるもの1つ1つが初めて見ることで、知ることなのだ。ことばを持たない赤ん坊と接するとき、なんとなくことばを使って話しかけはするが、ことばをコミュニケーションとして使っているのではない。ことばであって、ことばではない。押し付けるようにことばを使うことは決してないから、赤ん坊と接しているかぎり、ことばから解放されている。物事をことばにあてはめることなく、赤ん坊と一緒に目の前のことを1つ1つ見るようになる。赤ん坊にとって、物の用途なんて関係ない。ただ目の前に物があって、それが興味深いものであるかそうでないか。面白そうであれば、手にとってその感触をじっくり確かめる。
 
僕はいま経験している最中なのだ。過程にいるのだ。