Life Itself

生活そのもの

「つながる」ということばを使うことへのためらい

今日はバッキバッキに身体が痛い。両脚ともにきつい筋肉痛だが、左脚の方がよりひどい。ヨガ中に右脚の方に詰まりを感じたから、詰まりの分だけ、伸びや負荷がかかりにくかったのかもしれない。
 
 
僕は「つながり」ということばが苦手だ。あまりこのことばを使いたくない。家族とのあいだ、友人とのあいだ、自然とのあいだ、宇宙とのあいだ、様々なところにいくらでも「つながり」を見出すことはできる。みんなつながっているよね、って言われたら、たしかにそのとおりだと思う。つなっがていると言うことはとても簡単で、なんだかそれで全ての整理がついてしまうようだ。とくに最近はいろんなところでこの「つながり」ということばを耳にする。
「つながり」を否定するつもりはないけれど、僕は「つながっている」という前に、自分自身がそれを体験として強く実感したいと思う。「つながっている」とことばにするよりも、そのことばにするまでの過程を大事にしたい。
 
ヨガをしている人はよく「つながり」ということばを使うが、それは身体を通して感じているからだと思う。たしかにヨガをして身体に意識を向けることで、身体の微細なところまで見ることで、他のものとの「つながり」は感じやすくなると思う。それでも僕は、ヨガを本気でやっていない僕が言うのもなんだけど、「つながっている」ということばを使うことに強いためらいがある。「つながり」というには、僕の中では実感が伴っていない。きっと「つながっている」とことばにしてしまえば、すっきりすることなんだろうけれど。
 
いま、石牟礼道子さんの『あやとりの記』を読んでいる。この本では、人も馬も風も海も草や花もすべてが溶けて一緒になったり、あるいはそれらが互いにいったりきたり混ざりあう。過去、現在、未来の時でさえも混ざり合う。ことば一つでは片付けることができないあわいの世界の中に万物がある。まだ本の途中だが、現実なのか夢なのかそれさえもあやふやだ。
僕はこの本の中で、読むという行為をとおしてその世界を体験し、そこで描かれる物語、世界のなかに入り込む。不思議だが、とても恍惚とした気分になる。坂口恭平の『現実宿り』でも似た感覚を覚えた。ある意味では、狂気を含んだ、もしくは狂気手前の世界なのだと思う。「つながり」を書いた物語ではあるが、「つながり」と簡単に一言で片付けられるものではない。
「つながり」は、絆ということもできるかもしれない。絆は「きずな」であるが、「ほだし」でもある。「つながっている」ということは、一方で「つなげられている」ということでもある。つながっている対象が必ずあるということだ。その対象に対しての実感を持たないまま、あるいはその対象の一部だけを見てすべてがわかったように、「つながっている」と言わないようにしたいなぁと思う。
 
これからもずっと、ためらいの気持ちをもって「つながる」ということばを使うだろう。また、この「つながる」ということばへの違和感は、一生考え続けていくものになるような気がしている。