Life Itself

生活そのもの

耳鳴り

ふと疑問に思ったのだけれど、世の中の人は耳鳴りについてどれほど気にしているのだろう。耳鳴りが頻繁に起こる人もいれば、ほとんど起こらない人もいるだろうが、耳鳴りが起こった時、それを気にする人はどれくらいいるのだろう。
僕は自分のことを神経質だと思っているが、耳鳴りが起こるとすごく気にしてしまう。耳鳴りにもいろいろとあって、寝ていても起こされるほど大きい耳鳴りもあれば、とても小さい耳鳴りもある。小さい耳鳴りであれば気づかない人もいるだろうが、僕はすぐにそれに気づいてしまう。一度耳鳴りに気づくと、ずっとそれを気にする。耳鳴りがおさまっても、本当におさまっているのか、耳を塞いでわざわざ確かめる。
 
耳鳴りなんて大したことはない。たしかに耳鳴りが過ぎてしまえばそう言うこともできるが、耳鳴りが起こっている最中というのは、それにとらわれてしまう。そんなときこそヨガだ、とらわれないことだ、と思うが、ネガティブな思考がそれを邪魔する。
 
以前にも書いたことがあるが、映画『BIUTIFUL』で死にゆく主人公の描写で、ずっと耳鳴りに近い音が鳴っていた。僕は映画を観ながら、その耳鳴りに近い音に対しては嫌悪感を覚えなかった。それは結構不思議な感覚ではあったのだけれど、自分に起こっていない耳鳴りだったからか。でも、僕は耳鳴りの音自体が苦手だ。耳鳴りを気にするというのは僕の意識の問題なのか。
 
耳鳴りが起こっていて、それをなしにするということはできない。起こっているものは起こっている。起こっているということには気づきながら、それを気にしないようにしたい。ずっとそう思っているが、なかなか難しい。
 
最近、耳鳴りがまたひどい。耳鳴りを気にしてしまい、結果疲れてしまっている。その疲れの影響なのか、左目にものもらいができた。
 
自分の身体に対しては微細なところまで気づいていたいけれど、一度耳鳴りのような症状でどこかに変化が起こると、意識がそっちに奪われてしまう。意識の偏りなく、身体全体に気づいている状態を維持することは、(少なくとも僕にとっては)とても困難なことである。
 
最近、ヨガの必要性を感じている。ずっと前から先生にも妻にも言われ続けてきたが、僕が本来持つ性質を自分自身で考えてみても、ヨガはした方がいい。それも毎日、太陽礼拝だけでなく、がっつりした方がいいのだと思う。本当は。