Life Itself

生活そのもの

銀器

2019/01/23 赤ん坊は初めておすわりをした。
 
 
昨年の年末に読んでからずっと心に残っている須賀敦子の文章があるのだが、これからも大切な文章になるように感じているので、ここに載せておくことにする。 
 
 どっしりと重い銀製の、少し先がまがってしまったフォークや、肉を切るときにいつも力が入るあたりが摩滅したナイフを、大事に使っていたミラノの友人がいた。夕食に来てちょうだい、と招かれて、がらんとした都心の大きな邸に行くと、彼女はよろこんで、ちょっと大げさだけど、ごめんなさい、といいわけをしながら、趣味のいい、細工をほどこした銀の燭台にキャンドルをともした。離婚後の一時期、神経を病んでいたその友人は、病院から両親の死後ずっと締めてあった古い家に戻ってきて、これらの古い銀器を手にしたとき、思ったという。これがあれば、もういちどやりなおせる。
 また、ニューヨーク生まれのユダヤ系の友人夫妻は、結婚したときに、老人ホームにいる叔母さんから贈られた、銀器のセットを見せてくれた。その叔母さんは、戦争のときにポーランドから、いのちからがら逃げてきたのだったが、それでもこの銀器だけは手放さなかった。歳月がすぎて、ニューヨークの暮らしが落ち着いたとき、叔母さんは、その厖大な数のセットがそっくり入る、五段重ねのビロウドを張った食器用ケースを作らせた。ナイフやスプーン一本一本の柄に押された「純銀」のマークを確かめながら話をすすめる友人のよこで、私は、叔母さんがポーランドに残してきたという、赤い糸でこまかく刺繍したカーテンのかかった、白い清潔な台所や、どっしりとしたホウロウのオヴンや、窓際に置いたゼラニウムの鉢のことを思った。
 銀の古い食器がトランクから出てきたとき、マルグリットにも勇気がわいて、これがあればアメリカでだって暮らせるという深い安心といっしょに、定住への意志の、すくなくとも小さな芽ばえが生まれたのではなかったか。

 (2017 株式会社河出書房新社 須賀敦子須賀敦子全集第3巻』pg124-125)

 
この文章が印象に残る理由。それは、僕の両親が子どもの頃から、実家にある銀器を、父と母が亡くなったあとに弟と均等に分けるようにしていると散々言われ続けてきたからだった。子どもの頃は、銀器にどれだけの価値があるかもわからないし、その美しさについても当時の僕には感じることができなかったから、いつも話半分に聞いていて、それでも何度も言われるからすごく大事なことなんだろうとは思っていたが、つい最近になるまで銀器のことが頭に浮かぶようなことは一切なかった。
それが、今年の正月にも銀器の話になって、今度は父と母が亡くなったときの具体的なところまで話が及んだ。もし体が動かなかっても延命処置は絶対にしてほしくないということ、そのことを既に書面としてしっかりと記載していること、亡くなったあとに僕の家族と弟家族それぞれに譲りたい物。正月早々に聞きたい話ではないし、父と母が亡くなったときのことなんてできれば考えたくもないが、家族で会社を経営している以上、息子である僕に伝えるべきところは伝えておこうという思いがあることは僕にも重々伝わっているし、それをしっかりと受け止めなければならない。
 
実家の会社は祖父が創業し、それから今は父が継いでいて、そのあとは僕と弟で継ぐことになる。斜陽産業の業界であるから、これから何か対策をしなければならないが、小さい会社なのであまり冒険はできない。新しいことは僕の代になってから始めろと父は言っている。業界の状況だけでなく、どんなに楽観的に考えても、会社を継いだあとに乗り越えなければいけないことが山ほどある。それを目の前にしたときに、父と母がいれば相談することはできるが、もし父も母もいなかったらどうすればいいだろう。もちろん弟と話し合いながら前に進むしかないわけだが、完全な自己責任のもと、会社全体の舵を切っていかなければならない。こんな僕の精神が耐えられるだろうか。たびたび考えては不安になる。
須賀敦子のこの文章を読んで、実家にある銀器のことを思い出した。この文章を読んで以来、実家にある銀器について思いを巡らすことがあって、父と母がどういう思いで銀器を僕らに渡すつもりなのかということも、少しはわかるようになった。会社でも私生活でも何か問題があったときに、今はとても頼りにしている父と母がいないとすれば、そのときには僕の手元には受け継いだ銀器があるということだ。1人ではとても耐えられない状況になったとき、そばに銀器さえあれば、それを乗り越えるための「すくなくとも小さな芽ばえが生まれ」るかもしれない。