Life Itself

生活そのもの

背中の筋肉痛

昨日のヨガのワークショップではサマスティティヒ(立ちの姿勢)しかしていないのに、筋肉痛である。
 
先生は体に対してアヒムサをしては行けないと言っていた。アヒムサではなく、体が喜ぶことをやりなさい。
 
筋肉痛ではあるが、今までに味わったのことのない類いの筋肉痛である。背中の筋肉、普段は意識しないその部分が、僅かながら痛みがあって、痛みを常に感じることができるためにそこへと意識が向かう。筋肉痛によって、背中が常に感じられる状態になっているのがとても心地が良いのである。
 
普段は意識していないことや当たり前となっていることについて、光を当て浮かび上がらせるというのは、ある種芸術の領域と言えるかもしれない。ヨガが芸術だとは言わないが、昨日学んだことは、常に手元にあるプルースト須賀敦子堀江敏幸などの本を読むことで気づかされることに似ている。今まで当たり前だと思っているために見過ごされていること。既にあったが、まったく気づかなかったこと。彼らの本を読むことで、そういったことが浮かび上がり、自分の見ている世界がいかに狭いか、本来世界はどれだけ広く、深いものであるかを気づかされる。
 
体が喜ぶこと。体に対してアヒムサをしないこと。今背中に筋肉痛があるが、体はこの筋肉痛を喜んでいるような気がする。今日、僕は体をとても心地いいものと感じているのだ。
昨日のサマスティティヒでは、立ち姿勢で気をつけるべきポイントがいくつも挙げられていたが、特に背中に意識を集中するように言われていたわけではなかったように思う。だが、あるべき立ち姿をするためには、普段以上に背筋を使う必要があったのだろう。
サマスティティヒは立ちの姿勢であり、ただ立っているのとは違うから、普段からそのように立つ必要はないが、サマスティティヒをすることで立つときにも背中に意識が向くようになる。もしかしたら普段の立ち姿勢でも背中を意識するようになるかもしれない。
 
普段、どれだけ背筋を使っていないか。座り仕事では背中と腰が後傾し、まったく筋肉を使っていない。それは楽ではあるかもしれないが、体が喜ぶ姿勢ではないのである。楽であることと、体が喜ぶことは一致しないし、反対であることが多い。楽である姿勢の多くは、体に対するアヒムサであるのかもしれない。体が喜ぶことをするためには背筋を使わなければいけない。きつい。その姿勢を維持するのは簡単なことではない。立っているときだって、サマスティティヒのときほどではないにしても、背中はボテッとなっていない方がいいに決まっているが、それはきっときついことだ。きついことだからか、背中は普段は無視されている。
 
サマスティティヒで、ヨガで照らされることになる背中への意識。背中を意識するのとしないのとでは、感じる世界というのは全く変わってくるかもしれない。ヨガは1つ1つの体に意識を向けていくことだ。そうすることで見える世界が更新されていくのだとすれば、それは僕が本を読むことで、その体験で求めていることと同じことである。プルーストを読む前と読んだ後の世界の違い。なずなを読む前と読んだ後での家族のあり方の違い。サマスティティヒをする前とした後の背中への意識の有無。ヨガは体を通して世界を更新していくことである。大げさに言いすぎかもしれないし、後日読み返した後で後悔する言い方になっているだろうが、昨日のワークショップ後、今日の筋肉痛を経て、こんなことを考えている。