Life Itself

生活そのもの

月齢という言葉について

社会に出ると、同世代というだけでも親近感が湧くもので、同学年の人と会うことはそんなにないので、それがわかるだけで話が盛り上がって距離が一気に縮まることがある。だが、社会に出るまでは同学年と一緒にいるのは当たり前で、学校では1年とは年が離れていない奴らと常に一緒に過ごすこととなる。学年が違う人間と接するのは、1日の大半を過ごす教室を離れたときだけである。
 
赤ん坊といえば、同学年のくくりで考えることはなく、すべては月齢である。月齢なんて言葉は赤ん坊が産まれるまで使ったことも、ほとんど聞いたこともなかった(聞いても関係ないと思ってスルーしていただけだと思う)。月を経ていくごとに赤ん坊がそれだけ成長していくということで、成長の目安をはかるために月齢は重要な情報となる。僕がネット上で赤ん坊の情報を検索する際にも、キーワードとして月齢を必ずいれている。
 
月齢という、僕らに比べれば極めて短い時間でくくられている赤ん坊だけれど、結局月齢でくくるのは親だけで、赤ん坊にはほとんど何も関係がない。だけど、同学年から離れ、今や同世代というだけでも親近感が湧くようになっている親である僕らにとっては、月齢というくくり方はとても新鮮で、視点の大きな転換にもなるような気がする。
僕は自分が何歳なのか、少し考えなければわからないけれど、赤ん坊の月齢はすぐに答えることができる。まぁ、それは特になんてことはないけれど、6ヶ月に至るまでの1ヶ月1ヶ月についても、それがどんな1ヶ月であったかを、すぐに思い出せる。赤ん坊はまぎれもなく他者ではあるけれど、赤ん坊を見ているのは「僕」であり、見ている赤ん坊には、僕の感情や僕自身が付与されている。親という立場であっても、赤ん坊を見ることで、赤ん坊の時間の過ごし方だったり、物の見方を一緒に共有している。月齢という言葉を使うたびに、僕は赤ん坊の視点で時間を振り返るようになるのだ。