Life Itself

生活そのもの

2018/05/06

本を100冊ほど処分した。最初は本を処分することが嫌で仕方がなかったが。実際にやってみると、そこまで嫌な作業でもなく、処分した後は逆にさっぱりした気持ちだった。
 
積読の本はもちろん、一度読んだ本でも、後々読み返す可能性を考えて今まで処分したことはほとんどなかったが、思い返せば読み返したことなど数えるほどしかない。たとえ読み返すとしても、そういった何度も読む本というのはだいたい決まっているもので、読み返すことを前提として全てを手元に置いておくのは、よく考えればアホらしいことだ。処分している途中に、妻が「また読みたいと思ったら買えばいい」と言ったが、ほんとうにその通りで、今日も処分した本のほとんどは文庫本だったし、手に入れようと思えばいつでも手に入れることができるようなものばかりだ。そもそも手元になければ、読み返したいという気持ちさえ起こらないかもしれない。手元にあるから、いつか読み返す、これはこういった思い出がある本だと、何かにつけて意味を付与したがる。目に見えるものとしてあることで、意味を付与して、そこに執着が生まれるのだ。目に見えるものとして存在しているから執着が生まれるのか、電子書籍であれば執着は生まれないのか、そこのところはよくわからないけれど、目に見えるもののほうが執着が生まれやすいのは確かだ。いくつかの宗教が偶像崇拝を禁止しているのには、執着と呼ぼうが他の言葉で表現しようが、イメージに対して必要以上に意味を付与してしまって、本質が見えなくなることが関係しているはずだ。
 
まぁ、こんなことを書きつつ、僕はレコードという目に見えるかたちものとして音楽をせっせと採集していて、それを止めるつもりは今のところさらさらにない。頭の中の少なくとも3割程度は、レコードが占めている。明らかに矛盾である。だが、物にはスペースが必要で、今回本を処分をしたことで、レコード分のスペースが生まれる。何が必要で不必要であるか、生活のもっとも基本的なことを今まで怠っていて、不必要な物を処分することの快感を認識しただけに過ぎないのかもしれない。