Life Itself

生活そのもの

2017/12/19

今日は今年最後のヨガレッスンだった。

今年締めくくりということで、レッスンの終わりに慈悲の瞑想を行った。たぶん毎年やっていると思うけれど、慈悲の瞑想をしながら、今年は今までは感じたことがないことを感じた。

慈悲の瞑想は、以下の流れで瞑想を行っていく。

 

  1. 自分への慈悲の瞑想。自分が苦しみから救われるように、自分が幸せになるように。
  2. 愛する人への慈悲の瞑想。愛する人が苦しみから救われるように、幸せになるように。具体的に顔を思い浮かべる。
  3. 嫌いな人への慈悲の瞑想。嫌いな人が苦しみから救われるように、幸せになるように。
  4. 関係のない人への慈悲の瞑想。よく知らない人が苦しみから救われるように、幸せになるように。コンビニの店員など具体的に思い浮かべる。
  5. 生きとし生けるものへの慈悲の瞑想。生きとし生けるものが苦しみから救われるように、幸せになるように。

 

「2.」では、妻が妊娠の苦しみから少しでも解放されるように、また猫の体調が少しでもよくなるように、祖母が元気でより長生きできるように、と次々と思い浮かんで、今年起こった色々な変化を改めて振り返ることとなった。

「5.」のところで、生きとし生けるものとは、まだこの世に生まれていない体内に宿る生命もまた生きとし生けるものであるということを思った。これは今まで感じなかったことで、言わないまでも妻が妊娠していることから感じるようになっているわけだけれども、今日までそのことを想像することができなかったのは、考えてみると不思議なことだった。いまは少しずつ少しずつ人間の姿へと変わっている段階で、体内で懸命に生きようとしている。その姿を見ることはできないけれど、世界中のあらゆる人、動物、植物の体内で命が宿り、育まれている。姿を見ることができるものばかりが生命ではなく、その姿になろうとしている過程にいるものもまた同じく生命である。

今年のヨガの締めくくりとして、体内に宿る命に対して慈悲の瞑想を行って、ようやく今年1年の大きな変化を受け入れることができたような気がした。