Life Itself

生活そのもの

2017/12/18

昨夜、録画していた『シェルカウイ 踊りで世界を救う、41日の闘い』を観た。WOWOWで放送された番組だ。

これまでシェルカウイという人のことは全然知らなかったが、世界的に有名な振付家でありダンサーであるらしい。番組の冒頭で、シェルカウイがゆっくりと体を動かして踊る姿が映し出されたが、その動きと彼の深い呼吸に引き込まれて一気に最後まで観てしまった(観始める時間も遅かったので、とりあえずどんなものか10分程度観るつもりだった)。

 

この番組では、主にシャルカウイが新しい舞台を作り上げるまでの過程を追っている。一回通しで観ただけなので、曖昧な記憶を頼りに書くが、ノーム・チョムスキーの言葉、正確には忘れてしまったけれど、「今では暴力に変わって情報によって人は操作されている」といったような言葉をきっかけに舞台は作り上げられてくる。

初見で印象的だったのは、日本の和太鼓の音楽家とフラメンコのダンサーが衝突するシーンだった。和太鼓には和太鼓のリズムがあって、それをなかなかフラメンコの踊りのリズムに合わせることができない。ダンサーは和太鼓のリズムでは呼吸に合わせることができずに苦しくて最後まで踊ることができないようなことを言っていた。呼吸を見てほしい、もっとゆっくり、いやゆっくりすぎる…。和太鼓の音楽家からすると、それは和太鼓のリズムではなく伝統を崩すことになる、それに音楽として破綻してしまう。シェルカウイが間に入って、互いに歩み寄るように言って、実際にフラメンコのダンサーと一緒に和太鼓のリズムで踊ってみる。そして、音楽家に考えすぎだ、もっと感覚的にやれと言った。すると音楽家はそれなら自分は降りると言って、怒ってしまう。その場はなんとかおさまったが、それ以降シェルカウイは2人の間に入ることはなかった。開演2日前まで和太鼓とフラメンコ・ダンサーのリズムは合わないままである。フラメンコ・ダンサーは音楽家に歩み寄るタイミングを見計らっていて、周囲の助けがありながらようやく和太鼓の音楽家に話しかけた。拙い英語で直接どのように叩いてほしいかを伝え、音楽家はそれに合わせて叩いた(フラメンコ・ダンサーは英語をほとんど話せない)。直接2人でコミュニケーションを取って、反応を見せあいながら合わせていくと、テレビ越しで見ていもはっきりわかるくらいに、呼吸があうようになっていた。

シェルカウイは和太鼓の音楽家が怒りを見せてから、間に一切入ろうとしなかったが、それは2人が自ら変化することを求めていたのだと思う。それぞれ異なる文化で生まれた芸術なのだから、簡単に呼吸が合うわけがない。ましてや東洋と西洋だ。互いに要求をぶつけ合うだけでなく、歩み寄って、その文化に踏みとどまりながらもある程度は変化をしなければならない。変化は自らしなければならない。促されてするものではない。変化をするためには、2人が直接コミュニケーションをすることが必要だった。シェルカウイは間に入ることを止めて、2人が直接歩み寄るまで待った(歩み寄らないというリスクも承知の上で)。これは、僕が番組を観た上での想像にすぎないけれど。

 

人はそれぞれ過去の経験から作り上げてきたものの上に立っている。何かをするにあたって過去の経験を頼りにすることは、とても有効だ。ほとんどの場合、人はそれを無意識にやっていると思う。次第に経験は習慣となり、自らのシステムが出来上がると、そこに安穏と居座ってしまう。何も考えなくてよいし、とても心地の良いものだからだ。だが、そこに安穏と居続けると、ただ何も変わることなく、そのまま死を迎えることになる。無害な個人的な習慣であればいいけれど、一つの習慣化された考え方が、世の中を悪い方へと導いてしまうことだってある。習慣化されたものについては、時々待てと立ちとどまり点検しなければならない。時に変化は必要である。変化を怖れてはいけない。習慣に人は気づきにくい。習慣を気づかせ、継続的に変化を促すものが、芸術であるというようなことをシェルカウイは言っていた。彼は革命という言葉を使っていた。個人的なものであれ、人が変化するのは革命であると。

 

情報に操作されているというのは、そのとおりだと思う。テレビの情報はあまりにも一方的で、ただただ受け身にそれを受け取るだけだ。ネット上の情報だって、自分から情報を選び取っているように思えるけれど、グーグルのアルゴリズムによって検索結果で上位にくるものは、トレンドブログのような(個人的には)くだらないものばかり。孫引きされた情報で、『情報』を得たような気分になっている。また、ネット上にはあまりにも多くの情報が流れているが、そのすべての情報をキャッチアップし、様々な情報を語ることができなければならない義務感のようなものが生じている気がする。情報が僕達にすべてを摘んでいくように命令しているのだ。ただ、自分がその情報操作の中にいる間は、不思議と何も思わず、情報を得ることで何かをした気になっていて、操作されていることに気づかない。これは僕についても言えることである。日々色々と検索しているが、振り返ってみて、なぜ検索をしているのかわからない、本当に調べなければならない情報だったのか、調べるきっかけとなったものを思い出すことができない...。

 

今回、初めてシェルカウイという人を知ったけれど、たまに来日しているようなので、大阪くらいまでであればぜひ舞台を観に行ってみたいと思う。番組を観ただけでも自分の中でノイズが生じたが、実際に生で観るとどうなるのか。