Life Itself

生活そのもの

2017/12/16

今日は久しぶりにぐっすりと寝ることができた。この数日間、疲れが溜まっていたように思うが、今日の睡眠で解消されたように思われる。

それで気持ちが晴れ晴れとするかと言えば、そうでもない。起きるのが遅かったことで、やることが多くなり、気が急いてしまう。1本映画を観たが、集中して観通すことができなかった。ところどころ面白い箇所もあったが、その箇所だけ頭に入ってきて、あとは流すように観るといった有様で、ただ漫然と観ていた。失礼な観方である。

 

毎日毎日書いてきて、果たして自分はどこに向かって書いているのだろうかと不思議に思うことがある。誰のために、と言えば自分自身のためだ。だが、どこに向かって、となるとよくわからなくなる。過去に向かってなのか、未来に向かってなのか、未来でも明日に向かってなのか、遠い先に向かってなのか。

 

毎日書くということは、日々感覚が変わることを大きく実感させられる。前にも書いたことだけれど、これまで書いてきた中でも矛盾したところがあるし、考え方も変わることがある。それを読み返すのは、客観的に面白い。

1つ気づいたことは、毎日書くようになって、よく過去を思い出すようになったということだ。いいことなのか、悪いことなのか。いずれかの過去に執着しているというわけではなく、その時々によって思い出される過去は違ってくる。もちろん自分の過去の中でも濃密に過ごした時間があって、その時間のことは何回も思い出すが、意図してのことではない。毎日書くと言っても、過去のことを今の感覚で語るということ多いように思われる。

 

妻が妊娠していることがわかってからは、完全に心は未来に向かっている。向かっているというよりは、濃霧で見えず存在するかすら不確かなある一点の未来をやみくもにつかまえようとしているような感じだ。前ほどではないが、妻が苦しそうにしているのを見ると、早く安定期を迎えてほしいと思い、気が急いてくる。この苦しい時間が早く過ぎ去ってほしいという一心だけがある。未来に対する楽しみはまだ感じていない。実際のところ、まだ妻の腹の中に命が宿っているということは実感できずにいる。他人ごとではないが、苦しみや痛みを伴わないのだから、お腹が大きくなって目に見えるようになるまで、もしかしたら子供が生まれてくるまで実感はできないかもしれない。

 

実感はできないが、気持ちには変化が現れているのかもしれない。妻が妊娠してから初めて知った父や母、そして僕自身の過去の存在が、少しずつ、過去と今との繋がりを、今と未来との繋がり感じさせ始めている。それが「責任」という言葉の存在を浮かびああがらせ、それに惑わされ、振り回され、まだ居場所を見いだせずにいるが、これは望みでもある。それに対する怖さはありつつも、向かうべきところが見えてきたので、あとは向かえばいい。「責任」というのは、子供を持つことの責任というよりも、もっと漠然とした自分以外の人間と歩んでいくことへの責任だ。