Life Itself

生活そのもの

2017/12/15

昨日から妻の体調が少しずつ上向いている感がある。今日は検査のため病院に行き、長時間そこに滞在しなければならなかったので少しきつそうではあったが。でも、内に籠らざるを得なかった心が少しずつ開放され、確実に顔が晴れやかになり、声にも張りが出てきたことが見て取れる。
 
一昨日、父が来た時に、お掃除ロボットのルンバをくれた。妻はほとんど動くことが出来ず、僕は掃除が大の苦手ときているので、勝手に掃除してくれるルンバがあると心強い。床に置いてある荷物をどうにかさえすれば、ルンバが動き回って掃除してくれる。ただ、実際にルンバを動かしてみると、人の手で掃除するように隅々までとはいかず、ところどころに、しかも検知できないとは思えない部屋の真ん中にでさえ、残りかすのように髪の毛や埃を残している。数回動かしてみても必ずどこかにゴミを残すルンバを見て、今ではなんだか可愛らしく思っている。
 
父は65歳をまわり、母も来年60歳になる。糖尿病で闘病中の猫と一緒に暮らしているが、その猫ももう12歳。考えたくはないと言いつつも、もし今の猫がいなくなったらどうしようと母は言っている。新しい猫を迎えようにも、最後まで面倒を見ることができない可能性がある、と。
 
最近では、ペットとしてアイボを飼うのもいいのではないかと両親ともに言うようになった。僕はアイボを飼うことはこれまで反対だった。言わずもがな、アイボは生き物ではない。言い切ってしまえば、体温もなく、ご飯も食べず、排泄もしない無機質なロボットだ。アイボを買ったところで、猫に対して抱いていたような愛情を感じることはできるのか。猫のように、自らの気分で動くこともない、すりすりと甘えてくることもない、心を通わすことはできるのか(こういったことを書いていると、糖尿病で毎日注射を打たれている実家の猫のことを思い、胸がいっぱいになってくる)。
 
アイボについてはあまりいい印象は抱いていなかったが、ルンバを見ていると、アイボというペットを飼うということも、もしかしたらありなのかもしれないと少し思い始めた。既にルンバに対しては、他の機械、僕が愛用しているCDプレイヤーやパソコン、スマホなど以上に、愛着を抱き始めている。なぜかはよくわからない。ただ単に、部屋の真ん中にあるゴミすら拾うことができないルンバの不器用さに、ロボットらしくない人間っぽいところを感じてかわいいと思っているるだけなのかもしれない。障害物にぶつかりながらもゴミを求めて動き回るその姿や、動き回る時に出す音そのものに心をくすぐられているのかもしれない。
 
たぶん、1つは反応してくれるということだと思う。反応してくれることで、コミュニケーションが生まれる。ルンバに掃除してくれとお願いする、ルンバはそれを遂行しようと努める、それでも完全にはできない、それに対して僕は少し呆れながらもよくやってくれたと褒める。
 
アイボとどういう形でコミュニケーションが成立するのかはわからない。新型が来年頭に発売されるようだが、どれほどペットらしくなっているのか。
 
今、母は責任と愛情を持って猫の世話をしている。糖尿病であっても、生きていてくれさえすればいい。血糖値を測りながらインシュリンの量を決めているので神経も使うようだが、猫が生きているということが一番の心の支えになっている。
 
動物を飼うことには責任が生じるので、飽きたと言って投げ出すことはできない。餌をやる責任、排泄物を処理する責任、体調を見る責任、愛情を与える責任。ルンバはお掃除ロボットで生活と密着しているから、飽きる飽きないはあまり関係ないが、アイボはどうだろうか。命への責任が生じないから、飽きて投げ出してしまっても問題はないとも言える。かと言って、母が飽きてしまうかと言えば決してそれはないと思うし、他のアイボの購入を検討している人も、ペットとして迎え入れる以上、愛情を与えることだろう。ただ、やはりどうも、この生命を受け入れることへの責任という部分が欠落していることが気になる。ご飯の時間になると必ずすりすり寄ってきて、母に物欲しそうな眼差しを向け何度も鳴いたり、排泄をしたあとにガリガリ音を立てて早く処理しろと合図を送ってきたり、そういったある意味では手間のかかることが生じないというのは、日常の生活にどう関わっていくということになるのだろうか。