Life Itself

生活そのもの

2017/12/07

この1ヶ月ほど家にいる時間が長くなってきて、それにつれ書斎にいる時間も長くなってきた。これまでは書斎とは名ばかりで、一向に増えては減る気配のない本の中の置き場であり、本を適当に読む(読むというよりめくる)か音楽を聴く部屋でしかなかった。物が多く、集中することにあまり適さない部屋だった。かと言って他に集中できる部屋があるわけではないので、集中して何か作業をするためにはカフェや図書館に行くことが多かった。書斎であるにも関わらず、本を集中して読むために書斎を出るという有様だった。

今は家にいなければならないので、集中する必要がある時には書斎を使うこと以外に選択肢がない。本格的に書斎を使い始めた1ヶ月前はまだ遊び部屋という意識が強くて、何をするにしても着手するために時間を要したが、最近はようやく落ち着いて部屋にいることができるようになってきて、部屋に入るとすぐに作業に取り掛かることができている。部屋には相変わらず物は多いが、それらとより親密になったのか、いちいち反応しなくなった。ある意味でインテリアと化した。本は本でCDはCDだが、すべてが等しく『物』となった。物としての意味が薄まってきたと言うべきか。作業中にふと目を上げてそれらの物を眺めることも多いが、気分転換として見ていて気には留めることはない。考えが煮詰まった時などにそれらの物をぼーっと眺める。物が多いので、いろんな物が目に入ってくる。しばらくゆっくりとそれらを眺めるうちに考えがまとまる。インテリアでもあり、車窓から眺める景色のようでもある。物が多くてよかったと最近たまに思う。書斎の中では反ミニマリストだ。目を上げてぼーっとするために見る景色としては『物』は飽きがない。もちろんほとんどは読んだことがある本だったりするので、目に入ると本の中の一場面が頭をよぎることもあるが、それこそ風景だ。作業中はその風景は眺めるためのもので、そこから何かを考えることはない。意味のない風景、ただただ感じ、ぼーっとするためだけの風景。

 

ただ、作業をすると行ってもパソコンを使う。これが一番問題なのだ。常に誘惑に打ち勝たなければならない。このブログを書いていても、何気なく書いた言葉ひとつからふと連想が始まり、それに引っ張られ検索を始める。検索はさらなる検索を呼び、いつの間にか1時間が経っているということが結構ある。どこで作業をしようと結局のところパソコンやスマホはすぐ側にあるわけで、どこにいたって一緒なのだ。でも、パソコンで検索するよりも、最近は部屋をぼーっと眺める方が楽しい。部屋の眺めが気に入り始めてきたから、あまりカフェに行きたいとも思わなくなってきた。

 

今日はキセルの新譜『The Blue Hour』を購入した。一度通して聴いて、今はKRAFTWERKの『RADIO-ACTIVITY』を聴いている。