Life Itself

生活そのもの

2017/11/30

仕事が終わっても食料品を買うだけで他にはどこにも寄らず、すぐに帰宅する。ここ数年で一番家にいる時間が長い気がする。

家にはいるが、暇を持て余すということはない。むしろ、常に急いている。何に対して急いているかはわかっている。命の育みを妻の呻きによって感じながら、早く時間が過ぎてはくれないかと考えている。掃除、洗濯など家事の負担も多くなった。もっとも料理をするわけではない。外食をするか弁当や惣菜などを買う。片付けるのは専ら自分の服で、洗濯する服も7割は僕のものだ。妻はあまり動かないのだから、埃もほとんど僕が出している。自分が散らかしたものを自分で整理するだけとあまり変わらないが、仕事が増えたと感じてしまっている。

 

昨夜、妻が妊娠したことを同じマンションに住む叔母に伝えた。

 

妻が妊娠してから母との会話の内容が変わり、これまで知ることがなかった過去の事実を知ることになった。母は、僕や弟を身籠ってひどく体調を壊し、4、5ヶ月目から絶対安静で何度も入院を繰り返したそうだ。つわりや物を食べることができなくなることはほとんどなかったという。僕を身籠ったときは林檎を山ほど食べ、弟を身籠ったときにはかき氷を食べまくった。林檎を欲したことは僕に関係のあることなのだろうか。全く関係がないとは言い切れまいが、なぜと考えても理解のしようもない。林檎を食べまくり、その後僕が産まれた。因果関係はそこにはない。

体内に別の命を宿すことの困難さ。僕にはわかりようもない。ただ妻の呻きを聞き、嗚咽の音を聞き、顔色の悪さを見る。

万物は変化する。無常である。そのことにすがりたい。1日の間でさえ体調の変化はある。良くなってきている兆しもほのかにある。宿った命には急かずにゆっくりと育っていってほしいが、妻が耐えきれるか、ただそのことにのみ急いている。

 

妻に感謝し、母に感謝する。父は母が妊娠していたとき、何を思っていたのか。

 

家で暇を持て余すことはないが、コーヒーを淹れる時だけはゆっくりと時間が流れる。ドリッパーにフィルターをセットし、予め挽いておいた珈琲粉を入れる。沸騰したお湯をゆっくりと注いで、珈琲粉が膨らみ、細かい泡が出ては緩やかに沈んでいく様子を眺める。それを繰り返す。膨らんで沈む。膨らんで滴る。膨らんでは降りていく。腹の中の命を思いながら珈琲を淹れていたわけではないが、無意識に類似性を見出していたのか。どうだろうか。わからない。

 

坂本龍一のasyncが届いた。