Life Itself

生活そのもの

2019/09/01

・9月に入った。月初。 世間は休日であるにもかかわらず仕事は忙しく、休憩時間以外一息もつく暇なく就業時間となった。 帰宅後落ち着くと、仕事中には気づかなかった、いや気づかないふりをしていたのかもしれないが、疲れが覆いかぶさるように全身を襲い、1時間ほど頭から足の指先まで気だるさを感じることになった。

ただ、仕事が忙しいときにはよくあることなのだが、夜にするヨガはとてもよかった。普段よりも体が柔らかく、呼吸も深くできた。これは仕事中ほとんど動いていなくて呼吸が浅かったことの反動なのだろうか。ヨガをしたことで少し疲れが取れたような感じがする。 瞑想はあまり集中はできなかったが、気持ちのいい瞑想ではあった。ヨガが良かったことが関係しているのだろうと思うが、終始リラックスすることができていた。

・今朝もいつも通り早めに起きてヨガをした。 先日も書いたように、どうしたわけかこの数日間すこぶる鼻の調子が悪く、太陽礼拝を1回するたびに鼻をかまなければならない。これがとてもストレスになっている。 少しずつ改善しているような感じはするが、ずっと続くようであれば、病院に行って相談することも検討しないといけない。

朝起床してトイレに行き、軽く顔を洗ったらすぐにヨガを始める。いいヨガができるかどうかは、1日にとって大事なことだ。

毎日することなのだから、いいヨガができる日があれば、そうでない日もある。それはわかっている。だが、鼻をかみながらヨガをすることを考えると、ヨガをすること自体が億劫になって、起きるのが数分遅れる。その翌日はさらに数分遅れる。それが続くとヨガをする時間がなくなる。帰宅してがっつりヨガをしなければならなくなる。時間に追われる。寝るのが遅くなる。娘と遊ぶ時間もなくなる。妻に迷惑がかかる。

その時の体の状態を見るということもヨガの1つではあるのだろうけれど、やはり出来る限りいい体の状態でヨガをしたい。

明日からヨガをする前にプラーナヤマの練習を数分だけやってみるか。

少しずつ健康的に

最初は子どものためにと思っていたが、どうやら子どもの「おかげ」で僕の体は少しずつ健康になっているらしい。健康になっているらしいというところの根拠は、あくまで先日もらった血液検査の結果と、少しずつ減少している体重の数値によるものにすぎず、相変わらずクソほど体調の悪い日もあるけれど、それでも総じて言えば体調がいい日は以前に比べて確実に増えている(体重が減少したと言っても、見た目はまだ小太りだから、少なくともあと5キロは落とさなければならない)。

子どものおかげとは言っても、1歳の子どもが直接的に僕に何かをしてくれるわけではない(強いて言えば、朝早くに強制的に起こしてくることくらいだろうか)。子どもの行為ではなく、その存在によって、僕は健康になっているのだということだ。

これまでにも書いてきたように、子どもが生まれたことによって、僕と妻の生活は変化を余儀なくさせられた。ポジティブなものもあれば、ネガティブなものもあった。大したものではないので先に言っておくと、ネガティブなものとは、物を捨てなければならなくなったことと、お金の面だ。物を捨てる必要性は頭では理解しているけれど、それを実行するのはとても苦手で、毎回物を捨てた分だけ心も擦り切られているように感じてしまう。お金に関しては単純に自分で買えるものが少なくなったこと。レコードとか本とか服とか。

もっとも妻は僕よりもずっと子どもに関わる度合いが高いので、僕とは違う意見を持っているかもしれない。

あ、自分の時間は極端に少なくなった。これは僕よりも圧倒的に妻にとってのネガティブなもので、少しずつ妻の時間を作っていくことができるよう、これから成長する娘とも協力していかなければならない。

上にあげたもの以外は、ポジティブな変化ばかりのように思う。それがたとえしんどいものであっても。

子どもが生まれたことによる変化の1つが、外食が極端に少なくなったことだ。子どもを連れて行っても問題ないところであれば今でも外食することはあるが、やはり場所も時間も限られてしまうし、子どもが泣いてしまうととても神経を使う。もちろん、ディナーに行くことはなかなかできない。 外食が少なくなったおかげで、お金の節約になっただけでなく、脂分の多い物を食べることが少なくなった。外食が少なくなったということは、家で食べることが多くなったということた。少し前までは宅配を頼んでいて、こればかりを食べていた。宅配をやめてからも出来る限り体にいいものをと妻が気を使ってくれている。外食がなくなったことは多少なりとも体にいい影響を与えているように思う。

そして、早起き。休みの日であっても保育園に行くために早起きせざるを得ない。さらにヨガをやるための時間を確保するために、以前より30分早く起きるようになっている。保育園に起きる日は、今までよりも1時間早く起きなければならない。 翌朝早起きしなければならないとわかっていてもなかなか早寝することができないので、ときに、というかたいていの朝はしんどい。それでも、朝だいたい同じ時間に起きるというのはとても大事なことだ。それは体にとってもそうだが、心にとって特にそのように感じる。 当たり前のことだが、1日は起床とともに始まる。起床の時間が日によってバラバラだと日々のリズムがずれてきて、体と心を徐々に蝕んでいく。どんなにしんどくても朝早く起きるようになって、そのことを強く実感した。

今のところ体は順調だけれど、肝心なのはこの状態を維持することだ。娘が生まれたことで健康的になった生活だが、僕らが健康的に生活することは娘にとっても間違いなくいいことなのだから、娘にリードしてもらっている今の情けない状態から抜け出して、僕らがリードしていくようにならなければならない。

久しぶりに整骨院へ

ヨガを毎日続けていたことが体にいい影響を与えていたのか、しばらくの間、腰に痛みはなかったのだが、数日前から鈍い痛みが取れず、ついに今日我慢できずに整骨院へと行った。たぶん1ヶ月ぶりくらいの整骨院だ。

おそらく普段の生活の姿勢に問題があったのだろう。心当たりはある。1週間前くらいの数日間、村上春樹の小説を数冊立て続けに読んでいた時期があって、娘が寝たあとに深夜まで変な体勢で本を読んでいた。本に入り込んでいたから、どんな体勢で読んでいたのかわからない。どのくらいの時間読んでいたのかも記憶にない。たぶん相当体に負荷のかかる体勢だったのだろう。整骨院の先生は、背中がバキバキに硬くなっていると言っていた。

数時間に及ぶ無理な体勢を数日間続けると、30分程度のヨガではとても修正できない。ヨガの時間をこれ以上伸ばすことは難しいから、そのようなことがないようにしなければならないのだが、本を読んでいる間に、しかも本の世界に入り込んでいるときに、体勢のことなんか気にしていられるだろうか。

読書の時間を大切にするのか、体のことを大切にするのか。体の方が大切なのは当たり前なのだが、本を読んでいる間の体験は一回性のもので、同じ本を読んでも二度と同じことを体験することはできない。体験とは、本を読みながら感じたり考えたりすることだが、言わずもがな、体験は読んでいるときだけに生じるものである。数分後に同じ箇所を読んでも再現することはないし、ほかのことに気を取られていては体験そのものが失われてしまう。

だから変な体勢で本を読んでもいいかといえばそれは違うのだが、本を長時間読んでいると同じ体勢ではいられないのである。座っていても疲れるし、横になって読むにしても、残りの分量によって右向きが読みやすいか左向きが読みやすいか変わってくる。仰向きで読んでいると手が疲れてくる。長時間本を読んでいると、体勢をいろいろと変えざるを得ないのである。これは寝ているときに自然と寝返りすることと同じことのように思う。

まぁ、長時間ぶっ続けで本を読むということはめったにない。先週は夏休みで、深夜まで読んでいても仕事に影響がないからできたことだ。

今後いつ同じようなことになるかはわからないが、そんな時は本に捕まってしまったと思えばいい。ヨガをしても修正できないことは、あきらめて整骨院などに行って頼ればいい。読み進めたくて仕方がないと思っている本を無理やり止めることの方が精神上よくないし、結果的に体にも影響を及ぼす。

2019/08/29

今日、昼間は少し晴れ間が見えたし、天気は一昨日、昨日よりはだいぶマシだったが、それでも安定しない1日だった。今はまた雨が降っている。少なくとも今後1週間の天気予報はずっと雨で、安心することはできない。

僕が住んでいる地区はまだ大丈夫だが、数キロ西に行けば避難準備地域だし、地元の佐世保方面も雨はひどそうだ。弟は早岐川の近くに住んでいて、いつでも避難できるように準備していると言っていた。

この雨はいつまで続くのだろう。

雨の日は、娘を保育園へ送るにも気を使う。足元が滑りやすくなるから慎重に歩かなければならない。すれ違う人には傘がぶつからないように気をつけないといけないし、すれ違う人の傘の露先が娘の顔に、とくに眼の中に入らないように注意しておく必要がある。 傘をさしていると、娘がシャフトの部分を一緒に持ってくれる。雨の日は出来る限り出かけたくないけれど、シャフトを持つ姿はとてもかわいらしく、その姿を見るだけで落ち込んだテンションが少し戻る。

最近、娘は自分でスプーンを持って食べようとする。スプーンを掴むのは左手で、そのあと右手に持ち替えることが多い。左手のままのこともたまにある。右手に持ち替えるところを見ると、娘は右利きなのかもしれない。だが、掴むのは左手なのでまだよくわからない。

しばらく開いていなかったが、アプリ「トキツトオカ」を開くと、今日は生後60週目にあたるらしい。420日目。 去年の今頃は泣いてはミルクを作ってということを繰り返していたんだっけなぁ。少し日記を読み返すと、便秘に悩んでいて、診察で心雑音が聞こえるといわれ、ひどく心配していた時期だったようだ。

瞑想中の耳鳴り

昨夜の瞑想では呼吸に意識しようと思っていたのだけれど、なかなか上手くいかなかった。左耳の耳鳴りがひどく、それが気になってしまい、呼吸だけに集中することはできなかった。

呼吸に意識してはいた。してはいたのだけど、呼吸に意識してもほかの感覚は絶えず働いているわけで、聴覚をシャットダウンすることはできない以上、ひどい耳鳴りを無視することはできなかった。もっとも、耳鳴りは外の音ではなく、体内のどこかしらで発生している現象が音として聴こえているのだろうから、聴覚とどれだけ関係しているのかはよくわからない。

改めて考えてみると、昨日書いた洗いものをしている間は、触覚、視覚、聴覚、嗅覚が働いている。五感のうち、味覚以外は全て働いているのである。瞑想の間は、目を瞑っているので視覚は働いていないにしても、そのほかの感覚には働いている、もしくは働くことができる状態にある。

呼吸に意識すると、どの感覚が働くのだろうか。呼吸の音が聞こえるから聴覚が働く。鼻から吸って鼻から吐くから嗅覚が働く。鼻の穴に空気が入って出て行くから触覚が働く。呼吸に意識することでいくつかの感覚が働いてることはわかるけれど、感覚がフル回転しているわけではない。それぞれの感覚が余力をだいぶ残しながらも少しずつ働いている。呼吸は基本的には無意識に行なっているものなのだ。呼吸の間、感覚は働いているようでほとんど働いていない、または働き方が違うのかもしれない。無意識に行なっている呼吸に意識を向けても、そこまで大きく感覚を働かせるのは難しいということだ。

耳鳴りは、いわばノイズである。瞑想の静寂の状態でなくても、耳鳴りは常に鳴っている。が、静寂の状態でないときにそれを不快に思うことはほとんどない。常に鳴っている耳鳴りをずっと不快に思っていては狂ってしまう。静寂の状態になると、その耳鳴りに気づき、それをノイズとして感じる。不快に感じる。

耳鳴りの音は大きくなったり小さくなったりする。僕の意識の問題なのかもしれない。大きく感じているだけかもしれない。とにかく、僕が感じる耳鳴りの大きさは一定ではない。リズムもない。たまに心臓の音と同じタイミングで音が大きくなることはある。耳鳴りの音は形容しがたいものだ。それはメロディではない。 音楽ではない。ノイズだ。

ただ、そのノイズを不快なものと捉えるのはなんでだろう。体が発している音なのだから、もっと親近感を覚えてもいいはずなのに。子どもの頃にはすでにノイズとして認識していた。はじめから耳鳴りは不快と感じるものとして認識するようインプットされているのだろうか。

これから瞑想をやっていく中で、また耳鳴りが気になるときが出てくるだろう。ヨガと瞑想で、耳鳴りを不快だと思うサンスカーラを取り除いていくようできるだろうか。

洗いものと瞑想

未だに家事全般というか、生活に関することのほとんどが苦手で妻に頼りっぱなしだけど、唯一洗い物だけはほぼ毎日僕が担当してやっている。洗い物も面倒で嫌いだったが、最近は面倒なだけではなくなっている。

たいてい音楽を聴きながら洗い物をするのだが、洗い物をしている間はたぶんほとんど何も考えていない。ただ食器を洗うことだけを意識している。食器を1つ1つ洗って片付けていくと、自分の中の何かも同じように綺麗に片付いていくような感じがして、全てを洗い終わる頃には頭もすっきりしている。きっとそれは瞑想と似ているが、瞑想よりもずっと考えていない。瞑想のときの方が勝手に思考が働いて考えてしまう。

部屋の片付けだけとそうはいかない。部屋を片付けていると片付けだけのことを考えるということができなくて、どう片付けていけばよいのかについて考えをめぐらせ、また片付けている最中の1つ1つの物を見て、それについて何かを思う。いつまで経っても片付かない。

なぜ洗い物をしていると考えないのだろう。洗い物で扱うのは食器で、服やレコードや本などの物と比べると執着がない。それも大いに関係しているかもしれない。だがそれよりも、洗い物の場合は部屋の片付けよりもずっとシンプルで、洗剤を使って洗ってそれを水で流して水切りかごに入れるだけということ、フローが決まっていることがいいのだと思う。考える必要がないし、食器の性質上、ある程度慎重に扱わなければならず、洗うことに一定の意識を向けなければならないから考える余地がほとんどない。

瞑想のときはただ座って目を瞑るだけだから考える余地はたくさんある。その空白を考えで埋めることなんて簡単だ。空白を空白のままにしておくことはとても難しいし、僕だけかもしれないが、ときに恐怖を伴う。

食器を片付けるというのは、瞑想でいえば呼吸をすること、呼吸だけに意識することになるだろうか。流し台にある食器を洗って水切りかごに入れるように、外にある空気を吸って体内に入れ、そして吐き出す。とてもシンプルだ。だが、呼吸は放っておいても続いていく。それをわかっているし、それがシンプルなことだとわかっているからか、マインドは呼吸に飽きて、呼吸にとどまることができずに動き始める。

壊れものの食器のように、もっと慎重に呼吸を扱うことができればいいのかもしれない。とても繊細なものとして。呼吸は、体や精神の状態にとても影響されやすい。本当はとてもとてもセンシティブなやつなのだ。手綱をしっかりと締めておかないといけない時もある。呼吸が速くなっているときは、それをゆっくりと落ち着かせる必要があるし、不規則になっているときはリズムを戻す必要がある。

せめて瞑想をしているときくらいは慎重に呼吸を扱うことができればいいのだけれど。今日はそのことに意識してみよう。

2019/08/26

今日瞑想をしているとき、初めて働いた会社のことを思い出した。そもそもの始まりは、昨夜日記を書いた後になぜかその会社のことが気になって、いろいろとネットで調べていた。大した発見もなくそれっきりにしたつもりだったけれど、今日までずっと引きずってしまっていたのだ。

正社員として初めて働いた会社だったから、僕は本当に世間知らず、常識知らずで色んな人に迷惑をかけた。上司から何度も怒られたし、何度かは納得行かずにやり合ったこともあった。当時は怒られることに対して理不尽に思っていたけれど、いま思い返してみると、多少理不尽であっても、当時の僕の行動、言動には少なからず問題があった。たくさんの失敗とちょっとだけの成果を通して、その会社でいろいろなことを学んだ。その会社でしか学ぶことができないことがたくさんあった。

その会社のことは数ヶ月に一度は必ず夢で見る。大抵の夢は起きた瞬間に忘れてしまうけれど、その会社の夢だけは忘れることはない。だいたいは会社で働いていて、上司と喧嘩する夢だ。怒りで目が覚めることもある。

今日瞑想で思い出したのは、昼下がりにほかの従業員とのんびりと話していたときのことだった。きつくて嫌なこともたくさんあったけれど、それは数日に一回あるかないかで、たいていは楽しく仕事ができていたのだ。

今とはまったく違う職種である。今は今でとても楽しい。というか、今はほとんど嫌な気持ちになることはない。極めて健全に、健康的に仕事をしている。今の会社の同僚などが夢に出てきたことは1回もない。怒られたこともやりあったことも一度もない。 今の会社も当時の会社も、少しでも状況をよくしようという点においては一緒だ。ただ、当時の会社はお客さんと直接関わりあうところだったし、売上を常に意識しなければならなかったから、とにかくやることが多かった。1人1人が負う責任も大きかった。だから、多少ギスギスしたことがあってもそれは仕方がないことだし、感情的になってやりあったのも無駄なことではなかったように思う。

何が書きたいわけでもない。ただ、昔のことを思い出したというだけだ。