Life Itself

生活そのもの

1歳の誕生日

娘の1歳の誕生日。

夜中、僕が覚えている限りでは、娘は5回はギャン泣きして起きた。その度に妻が授乳して寝かせたが、5回目くらいになると妻も疲れ果ててしまって起き上がることができなくなっていたから、僕が妻を起こした。ここ2、3ヶ月は夜中に起きてギャン泣きするということはほとんどなかった。おかしい。朝起きると娘の顔に湿疹があった。昨日、病院でヘルパンギーナと診断されたばかりだが、これは突発性発疹の症状ではないのか。

朝からフォトスタジオで写真を撮ることにしていた。湿疹がある状態だが、当日キャンセルするわけにもいかないので、行くしかない。2時間フォトスタジオにいたが、娘は終始不機嫌でずっと泣いていた。産まれてこんなに不機嫌な日もないというほど、不機嫌だ。あやしても、娘が好きなおもちゃを差し出しても一向に機嫌は良くならない。結局、2時間一度も笑顔を見せることなく、写真撮影は終了した。その後、料亭で予約をしていたが、そのままの足で妻はまた病院へ。突発性発疹と診断された。ヘルパンギーナは?突発性発疹ヘルパンギーナを同時に発症したということなのか。突発性発疹では、高熱が下がったあとは大抵ひどい不機嫌になるらしい。夜中のギャン泣きとフォトスタジオでの不機嫌は突発性発疹が原因だったのだ。娘の不機嫌は治らないが、料亭もキャンセルするわけにはいかず、車で料亭へ向かった。もちろん車の中でもギャン泣き。

料亭でも娘は不機嫌ではあったが、フォトスタジオのときよりは幾分マシにはなっていた。おもちゃで遊んだり、少しだけ笑顔を見せていた。それで安心したのが良くなかった。 料亭の部屋は個室だったのだが、掘りごたつだった。掘りごたつ危ないなぁとは思っていたのだが、妻が食べていて、僕が少し離れたところから写真撮影をしているとき、娘が後ろから掘りごたつの中へ落ちてしまった。僕は娘が落ちそうになった瞬間にファインダーから目を離して娘の方へ向かおうとしたが間に合わない。1秒にも満たないくらいの出来事だったように思うが、スローモーションで娘が落ちていく姿が見えて、その間大声で叫んでしまった。妻が気づいたのは娘が掘りごたつの中に落ちて大声で泣いた後のことだった。 幸い、掘りごたつの中も畳のような素材でクッション性が高く、頭は打ったもののそこに関してはおそらく大丈夫だと思う。ただ心配なのは、頚椎あたりを打っていたように見えたことだ。落ちた直後に大声で泣いていたし意識もはっきりしていて、その後も普通に動いていたから問題ないとは思うが、数日間は様子を観察する必要がある。娘の誕生日に両親揃って何をしているのだろう。注意力不足、保護者としては失格、ただただアホである。娘に何かあっては悔やみきれない。

そんな大事件がありつつも、その後餅踏みをして、選び取りをした。餅踏みではもちろんギャン泣き。とりあえずは踏んでいた、というかアシストして踏ませた。選び取りでは最初ハサミを取る素ぶりを見せたものの、数秒間見渡しながら黙り込んで、そろばんを取った。商売上手になる、とのこと。さて、どうなることだろう。

娘にとってのはじめての誕生日は、娘は突発性発疹による不機嫌、そして僕と妻の不注意による大事件を起こした日となった。忘れることができない日とはなったが、期待していたものとは全く違う形になった。娘よ、はじめての誕生日なのにまずはごめんよ、ほんとうに。おめでとう。あなたにとって見える世界がより広く、面白いものになりますように。

2019/07/04

・赤ん坊の病気はヘルパンギーナだった。突発性発疹だと思っていたが、違っていたようだ。 今朝まで少し熱があったが、その後は徐々に熱が下がってきて、僕が帰宅してからはいつもの赤ん坊だった。

・今この文字を書いているのが23:59。あと1分で1歳である。赤ん坊と呼べるのもあと1分。赤ん坊、赤ん坊、赤ん坊。この日記でも娘のことを何度赤ん坊と呼んだことだろう。0:00。今からは娘と呼ぶことにする。

・このタイミングで思うことはたくさんあるのだけれど、すべてを書くのはなかなか難しい。仕事が終わって娘と遊びながら、そして娘が寝てから考えていたことの多くは、昨年のちょうど今頃の産まれる直前のことと、これまでの1年のこと、そして今の娘のこと。昨年の今頃のことは鮮明に記憶として残っているが、この1年と漠然に考えるとやはりどうしても節目節目のこと、初めて寝返りした日、初めてオーボールを掴んだ日、初めて声をあげて笑った日、ハイハイした日などのことである。でも、その節目以外にも日々を過ごす中でいろいろと考え、感じてきたことがある。少し時間ができたら、この1年の日記をまとめて読み返してみたいと思う。

赤ん坊も回復してきて、医者からも問題ないと言われたので、明日は無事誕生日を祝うことができそうだ。少し忙しい1日にはなると思うが、娘に喜んでもらえるようにしたいと思う。

しかし、どうしてもまだ赤ん坊と書いてしまう。赤ん坊と書いて娘と書き直すことを繰り返している。慣れるまで時間がかかるかもしれない。

2019/07/03

朝には37度程度だった熱も今は40度近くまで上がっていて、未だ赤ん坊の熱は下がらない。今のままの状態であれば、また明日妻に病院に連れて行ってもらう予定だ。

あまりに心配になっていろいろと言っていると妻から口を出すなと言われてしまい、少しへこんでいる。口だしされるのが嫌という気持ちも赤ん坊の世話でいっぱいだという気持ちもすごくわかるが、どうしても心配のあまり「熱は?」とか「それだけ熱があるんだったら座薬入れた方がいいんじゃない?」とか言ってしまいたくなる。何も言わないと決めたはいいが、黙って妻の世話を見ていることも辛い。片付けくらいしかできることがなく、ただ心配な気持ちばかりが募っていく。たぶん心配な気持ちの出し方が下手だったのだろう、一番大変なのは赤ん坊にずっとつきっきりの妻だ。妻の邪魔になってはいけない、そう思いながらも心配で心は落ち着かない。

1歳の誕生日2日前だが、今はこんな状況だ。1歳の誕生日の日にいろいろとする予定だったが、明日もこのままだと決行するのは厳しいだろう。

昨年の7月3日の日記を読み返すと、今日は破水と勘違いして病院に行った日だった。覚えている。夜中に病院に行って、破水ではなさそうだから一旦帰ってくださいと言われた。それから娘の出産を経て家に帰ってくるまで、僕は毎日病院に通うことになる。 日記には、妻が破水したと思ったとき、ワクワクしていたと書いていた。出産まであと2日。サッカーW杯も開催していたこともあって、少しお祭り気分だったような気がする。

思考が働いていることに向き合う時間

・赤ん坊の熱は39.0度。さすがに心配である、というかずっと心配している。心配ばかりしているから妻は少し(かなりか)うざそうにしている。気持ちはわかる。だが、心配なもんは心配だ。自宅勤務をしているが、赤ん坊のことが気になってつい様子を見にいってしまう。

心配はしているが、赤ん坊はとても元気である。はいはいしてつかまり立ちして喋って歌って。さすがに食欲はあまりないし、散らかり具合もいつもよりはマシなので多少キツさを感じてはいるのだろうが、そんなことは全く感じさせずに僕らには愛想よく接してくる。 突発性発疹なのか風邪なのか。医者もわからないと言っているのだから考えても仕方がないが、大したことがなければいいのだけれど。ほら、また心配している。

・昨日、瞑想の間の10分というのはいつも同じ長さの10分だと書いた。 瞑想の間は思考は働きまくりなのである。考えている内容によってはその思考が長く続いて、10分の時間を短く感じても良さそうなものをそんなことはない。 しかし考えてみると、思考が働いていることに向き合う時間というのは、実は1日の中ではとても短い。ほとんどないのではないか。仕事をしているときは考えてはいるが、その考えに向き合っているわけではない。仕事に対してその考えを注入している。頭の中で考えがとどまるということはほとんどないのだ。帰宅してからも、ご飯を食べているとき、妻と話しているとき、赤ん坊と遊んでいるとき、そんなときは考えているわけではない。自由な時間、テレビを見ているとき、映画を見ているときというのは考えが入り込む余地がない。ただ没入している。タルコフスキーの映画やドキュメンタリー映画だと多少考えるかもしれない。本を読んでいる間というのは、ほとんどの時間を考えている。小説であっても考えている。物語に入り込むということはあんまりなくて、物語の途中で立ち止まりながら考える。 あとは風呂に入っている時間と寝る前の時間くらいか。ただ、寝る前の時間に考え出すと際限なく考えてしまうので、できるかぎり考えることがないように漫画を読みながら寝落ちするようにしている。風呂に入っている時間だけはずっと考えているかもしれない。頭を洗って血流が良くなるからか、次から次に考えが浮かんでくる。たまにいい考えが浮かぶこともある。

本を読んでいるときと風呂に入っているとき。1日の中で考えている時間というのはこれくらい、あ、あとはこの日記を書いているときか。やはりとても短い。

瞑想ではできるかぎり思考が働かないようにするが、思考が働いている時間、それに気づく時間というのも実はとても貴重な時間なのではないか。だから思考が働いていても10分の時間の長さは変わらない。思考が働いている、そのことに気づく貴重な10分間。思考が働くことは何も悪いばかりではない、それに気づいて思考と一体化さえしなければ。それはとても難しいことだけれど、だからこそ思考が働いていることと向き合う瞑想の時間をもつというのは大切なことなんじゃないかと昨日の日記を書いてから考えた。

瞑想で感じる時間の長さ

・赤ん坊の熱が38.5度まで上がった。もちろん保育園には行かせていない。 熱は上がったが、赤ん坊はいたって元気である。病院に行ったところ、突発性発疹かもしれないし、ただの風邪かもしれないと言われた。特に問題はないようだが、昨日から熱はどんどん上がっているので注意深く見ておかなければならない。明日も保育園を休ませることにした。 1歳の誕生日まであと4日。それまでに熱が下がってくれればいいのだけれど。

・瞑想について。瞑想している間はapple watchをつけて、10分が経過したタイミングで1秒くらいの振動が鳴るように設定している。そのまま瞑想を続けることもあるが、基本的には10分少しで終わる。

瞑想の10分というのは、いつも10分だ。毎回の瞑想で、10分をだいたい同じ長さとして感じるということだ。短くなったり長くなったりということがない、10分は10分だ。もっとも、瞑想している間の10分というのは、本を読んでいる時間や音楽を聴いている時間、昼休み中の10分とは比較にならないほど長く感じるのではあるけれど。 10分の間、ずっと思考が働き続けるということはないが、思考が全く働かないということもない。次から次へ、途中間隔を空けながら(この間隔が大事なのだと思う)、別の思考がやってくる。瞑想の間の思考というのはあまり持続性はない。それは思考を消し去ろうと努めているのだから当たり前のことかもしれないが、まだ同じ思考が働く方が思考を止めるのは少し簡単になるのにと思うこともある。別の思考が次々やってくるからややこしい。勝手にやってくる。どれだけの数の思考がやってきても、10分は10分だ。

昨日の瞑想は11日間続けてきた瞑想の中でも一番上手くいったように思う。思考が働く時間がいつもより少なかった。それでも10分は10分だった。途中、気持ちよくなってきて少し眠さを感じた。だから、瞑想が終わった後、夜はぐっすりと眠ることができるだろうと思っていたのだが、何度も何度も目覚めて全く熟睡できなかった。赤ん坊が熱を出していて心配だったということも関係しているかもしれない。だが、瞑想の間の感覚から言えば、熟睡できる感じだったから意外に感じた。

自分の身体のことはやはり全然わからない。それでも今は毎日ヨガと瞑想を続けて観察していくことが大事だと言い聞かせている。

2019/06/30

6月最終日。 本格的に赤ん坊の1歳までのカウントダウンが始まっている。昨年の今頃のことを思い出して懐かしい気分になり、0歳が終わることを少しさみしく感じ、1歳になることを嬉しく感じている。

この1週間くらいで、新しくできるようになったことがある。 1つ。自分の名前が呼ばれると手をあげるようになった。数日前からできるようになっていて、おそらくは保育園で他の子と区別するために名前を呼ばれる機会が多くなったことが大きいのだろう、フルネームでも反応するし、名前だけでも反応するし、名字だけでも反応する。果たして自分の名字を認識しているのかは不明だが、とにかくしっかりと反応して元気よく笑顔で手をあげる。模範の優等生である。あげたときの手の長さが頭の位置を越えるようになっていて、手が伸びていることにも気づいた。

もう1つ。手を叩いて音が出るようになった。Clap handsできるようになったのである。これまでも手を叩こうとしていたのだが、手のひらを手のひらで叩くことができずに音は出ていなかった。今日手を叩いているところを見ると、しっかりと音が出ている。リズムを取ることができている。とても楽しそうだ。そりゃそうだろう、自分の手だけで、自分の体だけで音が出せるのだ。手を叩いて音を出すことはおそらくはもっとも原始的な音の出し方だと思うが、その音の出し方、出方のバリエーションはとても豊かである。赤ん坊も手を叩いて音を出すことができるようになったことで、音の世界の1つ深いところに入ることができた。これからいろんな新しい音を自分で見つけていくことだろう。

今日、赤ん坊に少し熱があって焦った。37.5度。急患に行こうか迷ったが、赤ん坊はいつも以上に元気で特に変わった様子もなかったことから、妻が様子を見ようと言ってそれに従うことに。こういったときに焦るのは、いつも僕の方だ。結局、熱は上がることなく徐々に下がって、今は37.0度。今のところ問題なさそうだ。明日も熱があったら保育園を休ませて病院に連れて行く。 明日からは慣らし保育は終わり、本格的に預けることになる。朝が1時間早くなり、迎えに行くのが1時間半ほど遅くなる。計2時間半ほど長くなる。保育園にもだいぶ慣れているが、たいてい迎えに行く直前、6時間経つか経たないかぐらいにギャン泣きするようで、2時間半長くなるとどうなるか。しばらくはまたストレスをかけることになるかもしれない。 そもそも明日預けることができるかまだわからないところではあるのだけれど。

2019/06/29

今日は朝のうちにノルマの時間分のヨガを終えた。朝のうちに終わっていると、その後の気が楽だし、朝からガッツリ汗をかくのでとても気持ちよく残りの1日を過ごすことができる。

薬を服用するようになってから2年近く経っているからか、薬を服用する体というのが当たり前になってしまって、薬がある・ない状態での体のあり方というのを自分で決めつけてしまっていたように思う。

ヨガというのは、アサナの1つ1つで体のあり方、反応を観察することでもあるから、決めつけることなく、毎回その反応を確認しながら、ポーズを深めるまたは浅くするなどの調整を行う。その日の体調によって、またヨガをする時間帯によって体の動き方というのは全く違うので、前回はこれくらい動いたからというのはあまりあてにならない、というかあてにしてはならない。決めつけてやってしまうと、そこに向かって体を動かすので怪我につながる。慎重に体を観察することからヨガは始まるように思う。 毎日ヨガをしては更新し、その日の体と向き合う。体がこういうものだと決めつけず、毎日観察し感じ続ける。感じれる範囲にも限界はあるということはわかりつつも、できる限り感じ取るよう努める。努めるということばは違うかもしれない。ヨガをすることで、それを日常のこととし、日常のこととして観察し続ける。

ヨガを毎日するようになってからまだ1週間程度なので、大きなことは言えない。だが、これからもこのペースを維持することができるのであれば、薬を服用することになって以降、僕自身が体のあり方に対して決めつけてしまったものを取っ払うことができればと思う。日常的に体を観察し続けることによって。