Life Itself

生活そのもの

泣いているのに涙が出ていない

2019/06/28

気づけば赤ん坊が0歳でいるのも、あと1週間。1週間後には数字が0から1へと変わる。ただの数字であるが、0から1というのはやはり大きな変化だ。

ネットで調べたところ、諸説あるらしいが、赤ん坊というのは大抵1歳になるまでというのが通常であるようだ。ということは、娘を赤ん坊と読んでいいのはあと1週間。1歳になってからもこの日記や家の中では赤ん坊と呼んでもなんら問題はないが、赤ん坊の定義を知ってしまったからには、人前で赤ん坊と呼ぶのはなんとなく控えたくなる。

赤ん坊は最近、どうやら泣いたふりをするようになったようだ。保育園の先生から、赤ん坊はよく泣くけれど、目には涙が出ていないと言われた。で、最近赤ん坊が泣くところを見ていると、本気泣きのときとそうでないときがあることがわかった。本気泣きのときは声量からして違う。耳をつんざくような泣き声で、僕が抱っこしてもどうしようもなく、妻が抱っこしないと泣き止むことはない。だが、本気泣きでないときには、僕にでも泣き止ませることができる。抱っこしたり、絵本を出したり、おもちゃを出したり。すぐに表情が変わる。その本気泣きでないときは、たいてい涙は出ていない。本気泣きでないからと言って、赤ん坊が何かを訴えようとしているには違いなく、きっちりと向き合うことに変わりはないのだけれど。 でも、泣いたふりと言えばいいのか、うそ泣きと言ってしまっていいいのか、それをどう捉えるかは別として、泣くという行為が周りの人を惹きつける方法だということを、赤ん坊はいつのまにか気づいたということだ。それは生まれたときからわかっていたことではあるのだろうけれど、今になって、泣くというのは強力な武器であるということを自覚したということなのだろう。 あ、今あたし放っておかれている、お母はスマホいじっているし、お父は本読んでいる。ふざけるな、これから泣くから今からあたしに意識向けなさい。....よろしい。大声出すのも疲れるんだから、しっかりしてよね。

昨日赤ん坊を撮った写真の中に、カメラを真正面から見つめているものがあったのだけれど、目をきりっとして意志の強そうな顔をしていた。さぁ、1歳になって赤ん坊はどう成長していくだろう。

昨年と同じ日に大濠公園で写真撮影

2019/06/27 昨年の今日、出産予定日を間近に控え、いつ産まれてもおかしくないその時期に、大きいお腹でいる妻の写真を綺麗におさめようと大濠公園へ写真を撮りに行った。少し前から、今年の6/27に、今度は赤ん坊を連れて、大濠公園の同じ場所で同じような写真を撮りたいと話していたところが、昨日から梅雨が始まり、今日も雨の予報だったため諦めていた。ところが、いざ強になると雨を降っていたのは朝だけ、それから雨が降る気配もなく、15時頃、昨年とほぼ同じ格好で赤ん坊と一緒に写真を撮りに行った。

最近、赤ん坊は大濠公園に行くと、しきりに鳩や鴨の姿を目で追うようになっている。綺麗な花の目の前で止まると、赤ん坊も花をじっと見て、すぐに掴もうとする。綺麗な花をちぎってしまっては大変だから、赤ん坊の手が届かないところから花を眺めるようにしなければならない。ヒト以外の生き物にも興味を覚えるようになってきたのは、とても喜ばしいことだ。

赤ん坊がいると、どうしても赤ん坊をいかに可愛く写すかということを考えてしまって、昨年と同じような構図で写真を撮ってもうまくいかない。赤ん坊を抱えている僕または妻、赤ん坊のどちらかの顔が崩れていて、写真としてはあまり納得がいく出来にはならなかった。結局、同じような構図というのは諦めて、赤ん坊と一緒にいる僕・妻の顔を中心に撮ることになった。

昨年の同じに日にはお腹にいた子が、こんなにも大きく重くなっている。写真を撮りながら思うことは、妻も僕も同じことだ。妻の場合、自分のお腹にいたわけだから、より深くそう思っているはずだ。とても濃密な1年だったことに間違いはないけれど、写真を撮ってからもう1年経過した、そのあまりの時の早さに戸惑いさえ覚える。

九州北部、梅雨入り

2019/06/26 今日から梅雨に入ったからなのか、家族3人とも体の調子がどこかおかしかった。赤ん坊は、笑ったかと思えばすぐに泣いたり、機嫌が悪い状態が長く続いて、喚いて叫んでで結構振り回された。今日は在宅勤務だったので1日中家にいたが、赤ん坊の声が何度も聞こえてきたし、妻が昼ごはんを買いに行く10分ほどの間、泣きまくって参った。たぶん一番参ったのは赤ん坊自身だろう。妻が調べたことによると、赤ん坊は頭蓋骨の大泉門が開いているために天気の影響を受けやすく、雨の日には頭痛を感じやすくなるらしい。それは喚きたくもなるし叫びたくもなる。赤ん坊、しんどさをわかってやれなくてゴメンよ。

仕事が昨日から急に忙しくなって心にあまり余裕がなかったことも関係しているのかもしれないが、耳鳴りが何度も起こってだるさが抜けず、ずっとしんどかった。昨夜寝るときからおかしい感じがした。ヨガで体もいい具合に疲れているのに、カッカして眠ることができなかった。 今朝もヨガをして、ヨガ自体は日を経るごとにいい感じになってきてはいるのだが、ヨガをした後の爽快な感覚がほとんどない。ヨガをしなければさらにしんどくなるだろうなぁという感じはあるけれど。呼吸が浅くなるだろうから。

こんな日には、梅雨の始まりの日というのは1年でしか1日しなかいわけだが、どんな音楽を聴こう迷う。雨の日というのは朝から静かめな音楽をしっとりと聴くことが多いのだけれど、今日は仕事が忙しかったこともあって、静かな音楽はあまり聴きたい気分ではなかった。いくつかCDをかけて、しっくりきたのがレッチリ『Getaway』とプリンス『Purple Rain』だった。特にプリンスを聴いたあとは、心の状態が上向いた感じがあった。体がきつくても心の状態が上がれば、しんどさもだいぶ和らぐ。

曽我部恵一さんのサイトがリニューアルしていた。シンプルな感じ、最高だ。 で、サイトを見ていると、『ヘブン』のアナログ盤が出るらしく、それが『Purple Rain』への憧れを秘めたパープルヴァイナル仕様とのこと。 単なる偶然だけど、今日は『Purple Rain』に縁がある日だった。 http://www.sokabekeiichi.com/news/post_736.php

起床後すぐにヨガをする

諸事情により日記をアップすることができていなかったので、2019/06/25から3日分アップする。

2019/06/25 ヨガを毎日するというのはさほど難しいことではない、合計1時間のヨガの時間を見つけるというのが難しい。仕事が終わって夕飯を食べて、ときに赤ん坊の離乳食を食べさせてお風呂を入れさせて、赤ん坊と遊んで、そういったことをやっているとすぐに22時過ぎになってしまう。風呂にも入らなければならない。30分でも1時間でもいいが、書く時間は必要なので、その時間を考えると(書く時間は常にヨガよりも優先度は高い)、ヨガの1時間の確保というのはとても難しい。僕だけが自由に時間を過ごすわけにはいかない。妻にも妻の時間がある。

そんなこんなでどうしたもんかなぁと思っていた。まぁ考える前から答えは明白で、夜更かししてまでヨガをしたくなければ朝早く起きるしかない。ということで、今日から少しだけ朝早く起きることにした。朝ヨガを半分して、夜に残り半分する、という感じだ。

朝は、ただでさえ硬い体がコッチコッチだ。夜ヨガするのとは明らかに違う。それでも太陽礼拝を2回、3回と続けていくと体はしだいに起きてきて、少しずつ可動域が広くなってくる。太陽礼拝Bをする頃には、硬いことに変わりないが、その硬さに体が馴染んできて、伸びる感じがとても気持ちよくなってきた。 呼吸とともに体が起きてくる感じ。これは気持ちがいい。以前ヨガのリトリートで味わった感覚だが、ずっと忘れていたもの。

ヨガを終えていつものように急いで用意をして、出社した。朝をヨガをしたから、体育の時間のあとのような感覚がずっとある。少し疲れた感じ。今日はかなり忙しい1日となったが、最後までその少し疲れた感じだった。いつものように、いつのまにか体がだるくなってしんどくなってくる感じではない。ずっと小康状態。良くもならず、かといって悪くもならず。もちろん時間を経るごとに疲れは溜まっていくわけだが、その蓄積のされ方がいつもと違う。

久しぶりに朝にヨガをしたから、感じやすくなっただけかもしれない。別にそれでもいい。今日の1日というのは悪くはなかった。帰宅後、運良く時間が見つかったので(妻のおかげである)、がっつりヨガをしてシャバーサナをして、そのまま瞑想をすることができた。 いままさに書いているこの瞬間、この時、姿勢がピンと張っている。自然に背筋が伸びている。毎日ヨガすることって、とてもすごく効果があることなのではないか。いや、知っていた、かなり前にそのことを知った、でもずっとしてこなかった、改めて初めて知るように知った。

今日、川上弘美『溺レる』の中の「可哀相」を読んだ。今日体に感じたことと似たようなことを小説を読みながら感じた。マゾの話。痛くされと、考えることを止められる。考えられなくなる。

瞑想3日目

3日目の瞑想。
1日目、2日目には呼吸において苦しさを伴っていた瞑想が、3日目には苦しさがほぼなくなり、無の境地には程遠いものの、心地よい時間となった。
瞑想の間は、目まぐるしく思考は働く。これほど働くのかというほど思考は働く。それを制御することはできない。ただ呼吸に集中しようと努め、思考が働いている間にも呼吸に意識を向けていると、ほんの数秒だけ、いや秒にも満たないかもしれないほんの一瞬だけ、思考がない時間がある。3日目にしてようやく、思考が働いていないその時間を感じ取ることができた。


10分間と時間を決めて瞑想をしているが、10分がとても短く感じ、それ以上続けたい感覚すらあった。肝心なのは毎日続けることだ、調子に乗ってしまうと続けるのが辛くなるぞ、10分を過ぎてもなおしばらく目を瞑ったまま座っているとそんな思考がやってきて、それはとても力強く、行動を促す思考だった、僕は11分あたりで瞑想をやめた。果たしてやめる必要はあったのか。もし30分以上瞑想を続けたとして、明日、昨日は30分瞑想したのだからそれくらいはマストでしなければならない、と思うだろうか。思うかもしれないと考えたからこそやめたのだけれど。
瞑想は毎日の状態によって変わる。それはこの3日間でわかった。であれば、最低10分という時間を決めて、そのまま続けたければ自由に続ける、続けたくなければやめる。ただ10分だけは続けるということにすればいいのかもしれない。

 

まだまだ3日目、試行錯誤である。

赤ん坊はそろそろ赤ん坊ではなくなるのかもしれない

おもちゃや絵本を引っ張り出して、赤ん坊とあそんでいるときに思った。


これまで購入したおもちゃはすべて目安の月齢が記載されてあった。0ヶ月から、3ヶ月から、6ヶ月から、10ヶ月から。かならずしもその通りに購入したわけではなかったが、その目安を参考にしていた。3ヶ月の頃に10ヶ月のおもちゃを買うことはなかったし、10ヶ月になって3ヶ月のおもちゃを買うこともなかった。


まもなく赤ん坊は1歳になる。1歳になると、「1歳」を目安としたおもちゃがたくさんあって、これからは「1歳」用のおもちゃを購入することになるのだが、ざっと確認する限りだと1歳の次は1歳半、そして2歳、3歳と続いていくようだ。これまでのように、数ヶ月刻みで対象のおもちゃがあるわけではない。


今日、3ヶ月の頃に購入したおもちゃを出すと、赤ん坊は最初はあまり興味なさそうにしていたが、目の前で動かしていると飛びついてきた。それからはそのおもちゃでしばらくあそんでいた。対象月齢というのはあくまで目安の話であって、1歳になっても3ヶ月のおもちゃであそんだっていいわけだし、十分に気をつければ(自己責任というやつだ)たぶん1歳半用のおもちゃであそんでも問題はないはずだ。


ただ、1歳を境に月齢刻みから抜け出すというのは、親からすると少し寂しいことではある。数ヶ月毎におもちゃが用意されているというのは、少しずつステップアップして赤ん坊が順調に育っていることの確認になって嬉しかったし、少し先の月齢用のおもちゃを見て、あぁ数ヶ月後にはこんなおもちゃで遊ぶほど成長するのかと思ったりして、おもちゃは赤ん坊の成長具合をはかるものさしのようなものだったように思う。これから赤ん坊はおもちゃでははかることができないほどの成長を見せていくのだろう。それはそうだ。まもなく歩くようになって自分の足で動き回るようになる。地球がおもちゃになるようなものだ。月齢刻みのおもちゃは必要ないのだろう。

 

しかし、1歳というのは赤ん坊と呼ぶには微妙なところかもしれない。最近の日記では赤ん坊と書いたり娘と書いたりしていたが、そろそろ赤ん坊ではなく「娘」に統一した方がいいのだろうか。自らの足で歩き始めるまでは赤ん坊と呼ぶか。


成長はとても嬉しいことだが、ときが過ぎていくことに少し寂しさを覚えている。

2019/06/22

昨日考えた状態のまま毎日ヨガをするとなると、おそらくヨガはとても窮屈なものになってしまう。ヨガをやること自体がストレスになる。というか、なっている。考えてしまったものは仕方がないが、より自然な状態でヨガができるようになりたい。
とりあえず今日のヨガ(アサナ)は終わった。会社から帰宅して、赤ん坊が寝て少しゆっくりしてから始めたので、終わったのは23時半。まぁ、そんなものだろう。もちろん酒を飲む余裕なんてない。飲みたいとも思わないから、それは問題ない。ただ、来月から赤ん坊を保育園に預ける時間帯が早くなって、出社する前に送り届けなければならなくなる。それでもなお、体調を崩すことなく毎日1時間のヨガを続けることができるか。仕事もしながら、ヨガをして、書いて、赤ん坊ともちゃんと遊びたい。そんなに時間を作ることができるか。間違いなく家族に迷惑をかけてしまう。そんなことをつらつらと考えて、余計なストレスになっている。


ヨガを終えたときというのはとても爽快である。体は疲れているが、視界はクリアになっているし、呼吸が深くなっているから心の状態も落ち着いている。


昨夜書いた後に行った瞑想では、呼吸の吸うということに比べて吐くということがしづらい状況だった。書いてすぐだったのが影響していたのか、余計な力が入っていたのかもしれない。しばらく呼吸を続けていると少しは吐きやすくなってきたものの、最後まで吐きづらい感じは残っていた。

まずは日々の観察である。これからまた瞑想をするが、どうなるか観察したい。