2019/05/19
福岡の音楽フェスcircleに行ってきて、その後そのままサイゼリヤのワインを飲んでグダグダ。疲れと酔いで頭が働かないので。とりあえず勢いで書いておく。
高橋幸宏のSaravah!再現ライブでは鳥肌が何回もたった。特にLA ROSA〜ELASRIC DUMMYの流れでは、ベースの人(あとでまた名前調べる)と林立夫さんのリズムセクションのグルーヴにやられっぱなしだった。
細野さん。直近のワンマンライブと比べて、Hochono Houseの再現度が上がっていて驚いた。打ち込みと生音の違いがあるが、ワンマンで聴いた時よりだいぶHochono House寄りになっていた。そしてアンコール。細野さん、あのアンコールはさすがに想像していなかったわ。YMOのAbsolute Ego Dance。我らが伊賀航とのダブルベース(細野さんはエレクトリックベース)。鳥肌どころじゃなくて泣いてしまうって。矢野顕子のバックでベースを弾いているのを見たことはあるが、細野さんのライブでは初めて見た。
やっぱり伊賀航さんのベースは好きだ。Choo Choo ガタゴトだったと思うが、終盤のベースラインは最高だった。
就寝。
王舟と中原昌也の作業日誌で仕事も楽しくなる
土曜の仕事はいつも時間に追われるので、だからこそ意識が仕事だけにとらわれならないように、ラジオでスポーツ中継や音楽番組を聴いたり、これまで聴いたことがない音楽を聴くようにしている。まぁ、単純に脳のどこかでおサボりの状態でいたいというだけのことだ。
で、野球があるときは大体野球を聴いていることが多いのだが、今日は雨で一時中断の時間が長くてSpotifyで音楽を漁ることにした。漁ると言っても、たとえいい音楽であっても聴きたい気分のときとそうでないときがあって、聴きたい感じの音楽を漁ることができるのはよほど運がいいときのこと、もし漁ることに失敗したら気になっているバンドのソロアルバムなんかを聴くことになる。今日は漁ることに成功した。僕にとっては大物だった。
王舟という人。まだあまり調べることができていないのだが、上海生まれ日本育ちらしい。男性。アルバムを通してではなくて、おススメされている曲を上から聴いてみただけなのだが、ボサノヴァ的なものもあれば、打ち込み的なものもあるし、フォーキーなものもある。幅が広い。あくまで僕が受けた印象だが、フォーキーなものはHappy Traumのような雰囲気があって、聴いていると時間が長く豊かになる感じがある。ことばはどうであれ、僕が好きな感じ。ドストライクだった。それだけで、時間に追われる仕事も楽しくなるもの。途中しんどくなったが、今日は楽しく仕事ができた。
楽しく仕事ができたもう1つの要因は、数日前から中原昌也の『中原昌也 作業日誌 2004→2007』(2008、株式会社boid) を読み始めたからだと思う。 これがとにかく面白い。昼休みにこの日誌の数日分を読むだけで完全に仕事がオフモードになる。昼休みを満喫できる。オフモードにしたければ、この本を読めばいい。完全にオフモードになるのに、昼休み明けにはすんなり仕事に入ることができる。目覚めの良い朝のような感じだ。帰りの電車で読んだ下記の箇所で吹き出しそうになった。30ページ、2004年4月20日の日誌の一部分。
昼に起きて機材置き場に目を向けると、また大きなゴキブリが死んでいた。ガムテープを買ってきて、それを紐のように垂らして死骸をキャッチしてゴミ袋に何重にもくるんで捨てた。ここまでの作業に1時間はかかった。昨日もまた廊下に1匹死んでいたのを思い出した。
「ガムテープを紐のように垂らして」って、僕にはそんな発送はきっと思い浮かばない。本を読んで吹き出すのを堪えたのは久しぶりだった。吹き出すのは堪えることができたが、たぶん顔は普通に笑っていた。気持ち悪く思われてもどうでもいいよ。
2019/05/17
2019/05/16
昨年の年末にようやく両親がスマホに変えた。パソコンもほとんど使ったことがなかったから、スマホに変えて大丈夫なのか(もしかしたら電話もできなくなるのではないかと)少し不安だったが、らくらくホンというスマホ初心者でも使いやすい機種にしたことが功を奏して、今では両親ともに問題なく使うことができている。父に関して言えば、先月は利用制限がかかってしまうほどスマホを使いまくっている。首の痛風の原因がスマホの使いすぎにあるのではないかと疑いたくなるほどだ。
両親がスマホにしたことで、そしてスマホに慣れたことで、今までよりもコミュニケーションを取りやすくなった。両親はLINEは使っていないが、ちょっとした用事であれば電話ではなくSMSで連絡することができるようになった。母からメールがきて、それにメールで返すということが最初は小っ恥ずかしかったのだけれど、それも慣れた。
家族共有アプリを両親にダウンロードさせ、アプリを通して赤ん坊の写真をリアルタイムで共有することができるというのも嬉しいことだ。つい先日両親が福岡に来て、赤ん坊に服を買ってくれたのだけれど、その服に着替えさせた写真をアプリにアップして、すぐに見せることができるようになった。少し制限はあるが、写真でも動画でもすぐに共有することができるので、たまにしか赤ん坊に会うことができない両親にもその成長具合を追ってもらうことができる。
最初はらくらくホンを使うことにも気乗りしていなかった両親が、ここまでスマホを使うことになることは想像していなかったことだが、今のところスマホに変えてもらって良かったと思っている。何をどれだけ使って利用制限になったのか父には聞くことができずにいるけれど、楽しんでいるのであればそれでいい。Amazonで買い物をできるようになったようだし。父は早いうちにらくらくホンから卒業するのではないかと思っている。
アイスコーヒーとアイスクリームと『AGHARTA』
赤ん坊を見ること
目を離すことができなくなったことから、今まで以上に赤ん坊を見るようになった。見るというのは、スマホを操作しながら、または本を読みながらというわけではなく、遊んでいる赤ん坊をただ見るというだけだ。
赤ん坊を見ていると、見られている赤ん坊は視線を感じるのか、僕と目が合う。そして、手元のおもちゃを触りつつも、まだ見られているのかを確認するためにか何秒かに一度僕を見る。見られていることを確認するとまた手元のおもちゃで遊ぶ。
たまに赤ん坊と数十秒間見つめ合うことがある。別に2人とも見つめ合って何をするということでもない。表情を変えることもほとんどしない。見つめ合うだけだ。見つめ合っている間、僕の思考は働かない。見るだけでそれ以上もそれ以下もない。
この赤ん坊を見る時間、そして見つめ合っている時間というのは、瞑想的であると思う。思考が働かないというだけでなく、波のない穏やかな状態。
繋がるということばは違う。前にも書いたが、簡単に「繋がっている」などと言いたくない。無理やり言えないこともないかもしれないが、赤ん坊との間に一体感を覚えているわけではない。ことばにするならば、関係性か。別にことばにする必要もないのだが。
見ていると赤ん坊はあまりはしゃぐことなく、ただじっとおもちゃで遊んでいる。スマホを触りながら、本を読みながらだとそうはいかない。赤ん坊ははしゃいでアピールをしてくる。私をちゃんと見てということか、きっとそうだろう。ただ見ているときにもはしゃぐことはあるが、そこまで派手にはしゃぐことはない。
何が言いたいというわけでもないけれど(だって日記だし)、最近赤ん坊を見ているときは、一番心が穏やかな状態になっているように思うし、僕の心が穏やかになっているということは赤ん坊も心が波立っているということもないんじゃないだろうか。これからも何かをしながら赤ん坊を見るということは止められないだろうが、ただ赤ん坊を見る時の穏やかな状態のことは覚えておきたいと思う。