Life Itself

生活そのもの

胎内のノイズ

坂本龍一のラジオで胎児について面白いことを言っていた。なんでも羊水の中にいる胎児はとてもうるさい環境の中にいるのだそうだ。羊水は水だから音が伝わりやすく、反響するのだという。内臓が活動する音や心臓の音が大音量で聞こえるような状態。
だからか、洗濯機の回る音や掃除機の音が赤ん坊の寝かしつけに有効な場合もあるそうで。


そのことを聞いて、赤ん坊はもう外の静かな環境に慣れたのかもしれないなぁと思った。思えば生後10ヶ月というこのタイミングは、母親の胎内とほぼ同じ期間を外で過ごしたということになる。これからは外にいる時間の方が長くなってくる。胎内の音よりも、外の音の方が赤ん坊にとっては馴染みのあるものになっているのかもしれない。

 

羊水の中というのは、たぶんクラブのような感じなのだろう。クラブは夜が明けると終わるが、胎児はずっとそこにいなければならない。大きい音とともに育つ。
胎児はそれが当たり前の環境としてそこにいるが、僕ら大人が、たぶん子どもでも、胎内に戻ってそのような大音量の環境に身を置くのはとても耐えられないだろうと想像する。それとも、胎内の音というのは最も原始的な音なのだから、大音量でも安心できるような環境なのだろうか。


僕は音は好きだけれど、大音量でずっと同じような音というのは耐えられないような気がする。いつかフジロックMy Bloody Valentineのライブを見たとき、最後の曲で10分以上のすごいノイズが鳴ったのだが、野外で一番広い会場であったにもかかわらずライブ終演後耳鳴りがおさまらず、その後数日間ずっと耳がおかしかった。心も落ち着かなかった。Zeppで観たMogwaiのライブもそんな感じだったし、サマソニで観たエイフェックスツインのライブもそうだった。ノイズ系の音楽は家やイヤホンで聴く分にはいいけれど、ライブ会場で聴くのは苦手だ。胎内の音というのはどんな感じの音かわからないが、案外My Bloody Valentineの轟音と同じような感じなのかもしれない。


いま、赤ん坊はDA PUMPの音楽が好きだもんなぁ。今度Loveless聴かせてみるか。        

『いだてん』について

大河ドラマ『いだてん』のことがニュースになったと思えば視聴率のことばかりだが、僕の家族は『いだてん』をとても楽しんでいる。


『いだてん』に対する批判的な意見は以下のようなものか。
いわゆるブログ的に書いてみようか。

 

『いだてん』の視聴率が悪い?なぜ!?解説

 

 
時代と話が行ったり来たりでわかりにくい


まぁ、これは確かにごもっともなご意見。しかし、時代や話が行ったり来たりするのは、昨今の映画や小説では当たり前のことではないか。昨今って言ったってここ数年の話ではないし。閑話休題。だからと言って大河ドラマでもこの手法を使えば面白くなるというわけではないが、『いだてん』に関して言えば、この時代行ったり来たりするのはわかりやすい形で動いていくし、そんなに混乱するような感じではない。時代が動けば、しばらくその時代の話が続く。それに時代が変わるときにはたいていビートたけしがそのことを言うから、いきなりではない。時代や話が変わるからこそ、独特のリズムが生まれて引き込まれる。


ビートたけしの滑舌が悪くて何と言っているかわからない


これも極めてごもっともなご意見である。僕も1話目はなかなかたけしさんの言っているセリフを聞き取ることができずにいた。
だが、滑舌の悪さも癖の1つだ。人の癖はしばらくそれに接していると慣れてくる。ましてやビートたけしは今でもいろんな番組に出ているではないか。慣れるよ、慣れる。というか、お馴染みのものなんだし、慣れている。決して聞き取りやすくはないけれど、聞き取ろうと少し努力さえすれば、いつのまにかすんなりと耳に入ってくるようになる。


まとめ


いかがでしたか。なんて。「いかがでしたか」って、いつも思うけど何を聞いてんの。いかがでした系のブログが検索結果の上位にくるのはどうにかならないんだろうか。
ちょっとだけ真似してみたけれど、ブログの書き方ってつまらない。


書き方はともかく、ここであげた批判は、いずれもリズムや音の部分だ。リズムや音は身体に訴えるところだから、よくわからないものであれば違和感というか不快感を覚えることになるかもしれない。でも、リズムって反復なので、いくら違和感や不快感があっても慣れてくれば、いきなりそれが快感になることもある。時代が変わるというところも、そこでリズムが変わるってことだから、本来であればさらに気持ちが良くなるところだ。音楽のライブであれば、そのリズムがどんなものか体を適度に揺らしつつリズムが身体に入ってくるのを待って、待ってれば勝手に身体が慣れるからいつのまにか気持ちよく踊ってる。変わったリズムが、もしくは変わり方が素晴らしいものであれば、それまでどんなリズムかを忘れて忘我の境に入ることもある。
肝心なのは、そのリズムや音に対して構えるのではなく、ただその中に身を置くこと。とりあえず、リズムと音にノるということ。そうすれば、『いだてん』ほどリズムに乗ったときに気分が上がるドラマはないことがわかる、かもしれない。だって、『いだてん』の音楽は大友良英さんだもの。この人のリズムや音は信用して、ただ身を預けてしまえばいいと思う。


僕ら家族は毎週日曜日を楽しみにしている。たいていは録画したものを観ることになるのだけれど、赤ん坊と一緒にみるときは、横尾忠則さんの『いだてん』の題字とオープニングテーマで赤ん坊も笑顔になって踊って観ている。

とつけむにゃあ。

 

10ヶ月検診

10ヶ月検診だったが、特に大きな問題はなかった。身長が平均よりは低く、体重も少なめではあったが、正常の範囲内とのことだった。順調に成長しているとのことで、とりあえずは安心である。
 
ただ、医師から、赤ん坊はトイレットペーパーの芯より細いものであれば何でも飲み込んでしまう可能性があるから注意しなさいと忠告を受けた。つい最近もシャープペンの先を飲み込んだ子の診察をしたところらしく、うんちとして出てきたから良かったものの、飲み込んだ物によったら赤ん坊が苦しく大変な思いをすることになるから、飲み込まないように、というか飲み込む可能性のあるものを赤ん坊の目の届くところに置かないようにと言われた。ペットボトルの蓋などは読み込みやすい物の1つであるそうで、そこらへんに置いておくことも多いので、注意しなければならない。
 
また、ピーナッツは赤ん坊が食べてしまうと、炎症を起こして肺炎になる恐れがあるそうで、食べさせてはいけないということも聞いた。赤ん坊にとってピーナッツが危険だなんて全く知らなかった。そのことを聞かなくても、進んで赤ん坊に食べさせることはなかっただろうが、もし誤って赤ん坊が食べても何も思わなかっただろう。聞いておいてよかった。
 
これから先はさらに赤ん坊が活発になって、僕ら親が注意深く観察する必要があることを改めて思い知らされた。
 
しかし、10ヶ月検診はただの触診と問診だけであったにもかかわらず、赤ん坊はギャン泣き。僕らも赤ん坊も疲れ果ててしまった。昼過ぎには一度家に戻り、赤ん坊の頑張りをねぎらうために、博多リバレインモールにあるボーネルンドの遊び場へ連れて行った。初めて連れて行ったのだが、赤ん坊は大喜びだった。6ヶ月から1歳半専用のスペースもあって、結構広いスペースで思う存分ハイハイをしていた。大きな鏡があり、その鏡で自分の姿を認めると満面の笑みで鏡に向かってハイハイし、鏡の前に座ると、自分の鏡姿に向かってタッチをしていた。最近は家でもよく鏡を見ているのだが、1人がようやく映る程度のものなので、大きな鏡で嬉しそうだった。
 
ボーネルンドの遊び場は今の赤ん坊の月齢でも十分に楽しむことができるし、これからも長い期間遊ぶことができそうだ。あれだけ広い空間をハイハイすることは家では難しいし、これから頻繁に遊びに連れて行きたいと思う。           

赤ん坊に「ちょうだい」

赤ん坊はいつのまにか新しいことができるようになっているから、いつも驚かされる。今日も昼過ぎくらいからいきなり唇を震わせて、バイクのエンジン音のようにブンブンブンと音を出した。これまでやったことはない、やりたそうにはしていたかもしれない。やったのは今日の昼過ぎが初めてである。それから赤ん坊はその音を発するのが楽しくなったらしく、ずっとブンブンブンと音を出していた。


それから。今日は夕方くらいに芝生で遊んでもらおうと公園に行った。最初は少し戸惑っていたものの、一度芝生に触るとその感触を思い出したのだろう、芝生を掴んだりちぎったりして夢中になって遊び始めた。もっともっと自然に触れ合ってもらいたいと思っているから僕ら親は微笑ましい気持ちでその姿を見守っていたのだが、しばらくすると赤ん坊はちぎった芝生の葉を僕らの目の前に差し出した。どういう意味なのだろうと思っていたのだが、妻が「ちょうだい」と手を出すと、その上に葉を置いた。僕も「ちょうだい」と言って手を持っていくと、同じようにくれる。赤ん坊はいつのまにか他人に何かをあげるということを知っていたのである。いや、あげたのではなく、単に渡しただけなのかもしれない。赤ん坊がもっと執着を持っているだろうおもちゃや絵本であれば「ちょうだい」と言ってもくれないかもしれない。だが、それでも自分の手にあるものを他人に渡すことができるようになったなんて、大きな成長ではないか。そんなに成長しているとは思っていなかった。


明日は10ヶ月検診である。赤ん坊の体に心配事とまではいかないまでも、いくつか気になっていることがあるので、この機会に医者に聞いてみるつもりだ。いろいろとできることは多くなっているけれど、怪我なく病気なく成長してくれることをただ祈るのみだ。

プレイマットでヨガを

赤ん坊は家中を動き回り、掴めそうな高さのものがあればどこでもつかみ立ちをするようになって、どこでどのような状態から転げ落ちるかわからなくなったことから、リビングのほぼ全面にプレイマットを敷くようにした。2人掛けのソファーをリビングに置いていたのだが、それにもつかまり立ちをして危ない感じだったので処分して代わりにローソファーを購入した。
 
赤ん坊のために整えた今の環境だが、これが思いのほか僕や妻にとっても心地よくなっている。ローソファーにしたことで部屋に圧迫感がなくなり、広く感じられるようになった。ソファーにくつろぎながら赤ん坊の相手をできるというのは僕ら親にとっても赤ん坊にとっても楽だし、双方の視線の差というものがなくなった。これは結構大切なことだと思う。
 
何より一番快適なのは、プレイマットの存在である。プレイマットがあるおかげで、ヨガマットを敷かなくても、リビングにいながら簡単なストレッチやヨガのアサナをできるようになった。ヨガをするモードに切り替えることなく、赤ん坊の相手をしながら、テレビを見ながら簡単なヨガをすることができるということだ。本気でヨガをしている方には怒られるやり方かもしれないが、「ながらヨガ」であっても数分でもヨガができれば体の調子というのは全く違ってくる。ヨガはヨガマットでやるものと決めてやることはいいことだと思うけれど、それは少し窮屈でもあって、ヨガマットに乗る=ヨガをやるモードに切り替わるということが煩わしくなって、結果ヨガをやらなくなる。まぁ、それは僕の怠惰のせいだ。でも、ヨガマットを敷かずとも家の中のどこでもヨガをできるようになれば、きっとヨガをする時間は増える。ローソファーだから、ソファーにちょこんと座って、座布団の上に座ったような楽な状態で瞑想をすることもできる。生活とヨガの垣根がなくなってくる。生活の一部にヨガが入り込んでくる。スマホを触るくらいの感じでヨガができるようになればな。

TIFFAKONKAE

昨日、日記を書いた後に久しぶりにKamasi Washingtonに聴いて、またやられてしまった。また、というのは既に一度やられたことがあり、二発目だからだ。一発目は『The Epic』が発売されてしばらくしてからのことで、初めて聴いたときにあまりのぶっ飛んだ感じにやられてしまった。やられてしまったとばかり言って他に言い方がないのかと思われるかもしれないが、そんなことはどうでもいい。ぶちのめされた、衝撃を受けた、心を打たれた、どんなことばを使っても示すことは同じことだ。昨日聴いたのは『Heaven and Earth』だった。リリースされてすぐにアナログ盤を購入して何度か聴いた。Kamasi Washingtonを聴くには、ときにとても体力を使うし、心の状態がいいときでないといけない。昨日は連休最終日ということで体も心も疲れていなかった。それにKamasi Washingtonが聴きたい気分だった。で、久しぶりに『Heaven and Earth』を聴いた。今まで僕はこのアルバムをきちんと聴いていなかったのだろうか、どの曲も初めて聴くように新鮮に聴こえて、だから聴くのに集中力が必要だった。5曲目『TIFFAKONKAE』。この曲本当にやばい。心と体がすべて持っていかれた。印象的なベースの刻むリズムとリフ。ピアノとベースの絡み。そしてその上に乗るサックス。体は自然と動く。この曲を聴いている間は体が軽くなったみたいに、踊ることができない僕でも軽やかに動く。軽やかに。いいことばだ。かろやかにって響きもいい。書きながらかろやかにと頭の中で音を発した。
 
たぶん音楽を聴くのには適したタイミングがある。これ前も書いたような気がする。昨日がまさしく『Heaven and Earth』のタイミングだった。とは言っても、まだ『Earth』の方しか聴いていない。今のところは『Earth』までしか聴くことができない。また数日置いて今度は『Heaven』を聴いてみることにする。
 
この『Heaven and Earth』だが、CD盤だと隠しCDがあることを知った。実際に見ていないのでよくわからないが、ケースをカッターなどで切るとそのCDを取り出せることができるとか。アナログ盤には隠しレコードはなさそうだ。CDも買うことになるのか...。

どんどん表情が豊かになる

10連休ということで街にはどれだけの人であふれるだろうと思っていたが、考えていたよりは大したことはなくて、昨日なんかは普通の土日より人が少なかったくらいで、街に出ても普通に楽しむことができた。このGWで特別に何かをしたわけではないが、結婚式で帰省した2日間と仕事の1日以外はずっと赤ん坊と過ごすことができたことは良かった。
 
ずっと書くことを忘れていたのだけれど、最近赤ん坊はストローを使うことができるようになった。麦茶が好きで、今日は自分で麦茶のパックを持って飲んでいた。途中、少し麦茶が残ったパックを振ってチャプチャプ音を立てて楽しんでいて、楽しむことはいいのだけれど床に麦茶をこぼしてしまっていたので「だめだよ。」と言うと真顔で一瞬止まり、その後また僕の顔色を窺いながら、赤ん坊も顔の表情を微妙に変えて何かを僕に訴えるようにしてチャプチャプと振っていた。怒っているわけではないと笑いかけると一度眉毛をつり上げてじっと僕の目を見て、さらに満面の笑いかけたらつり上げた眉毛を落として目を三角にしてニコッと笑う。表情が豊かになっている。
 
赤ん坊の表情はことばを伴わない。その豊かな表情で何を伝えようとしているか完全にはわからないが、とにかく顔をあわせて目を見て表情を読み取ろうと努める。最終的には笑いかけて笑顔が返ってくればいいことにしている。
ことばがあったところで意図するところが完全に伝わるわけでもない。ことばを持たない分、赤ん坊はきっといつも僕らの顔をじっくり見ている。そして、僕らの表情を真似しようとする。赤ん坊の表情は、僕らの表情の一部でもあるのだろう。豊かな表情を僕らが作り上げたと言いたいのではない。豊かな表情は、赤ん坊が見ている豊かな世界の反映だと思う。赤ん坊は、見るものから僕らには想像できないほどの豊かな情報を得ているのだろうと思うが、もっといろんなものを見せてあげたい。ことばを持たない状態で、複雑で多様な世界を見てほしい。これから保育園に行くようになって、他人の存在を強く意識することだろう。他人を意識することで赤ん坊の世界は少し変わってしまうかもしれない。ことばの存在も強くなるかもしれない。ことばが世界を分かつ前に、安易な考えかもしれないが、大自然の中に身を置いていろいろと見て感じてほしい。その機会を作るのは、親の大事な役目だと思う。