Life Itself

生活そのもの

アジア杯

今日は久しぶりに忙しい1日だった。特に午後は休む暇がなく、残業がないように無理やり終わらせたせいか、家に着いてからぐったりとしてしばらく何もする気が起こらなかった。
昨日のサッカー。優勝できなかったのは悔しかった。悔しかったけれど、W杯のベルギー戦に負けたときほどではなかった。大会の規模の違いか。それも大いにあるだろう。昨日の試合はカタール側のスーパーゴールもあったけれど、負けるべくして負けた。しかし、格上相手であるベルギー戦では勝てると思った。2点リードしたときには、観ていた人の7割くらいは勝つと思っていたのではないか。1点入れられて少しまずいかもとは思ったが、その後同点に追いつかれても、それでもまだ勝てるかもしれないと思った。ロスタイムに点を入れられるまで、大きな期待があった。一瞬にして、その期待が崩れ落ちた。あれは本当に悔しかった。
 
赤ん坊はW杯期間中に産まれた。7月5日だ。ベルギー戦の日程を改めて調べると7月3日、産まれる2日前だった。妻も一緒にベルギー戦を観て、同じようにショックを受けていた。僕よりもショックを受けていた。
産まれる直前だった赤ん坊はその悔しい気持ちを感じ取っていただろうか。どんなふうに伝わっていただろう。たぶん、そんなにネガティブには伝わらなかったんじゃないだろうか。日本国民として観ているとしても、直接には関わりのないスポーツの観戦に一喜一憂できること、サッカー1試合だけでいかほどまでに感情が動かされるかということ、たった90分間ではあるが観ている人が一体となって情熱を向けることができるものがこの世にはあるんだということ。コロンビア戦で期待と喜びが生まれ、セネガル戦では期待が自信に変わり、ポーランド戦では耐え忍んで負けながらも勝った。大会期間中に様々な感情を経験した。妻と僕が共有したその経験は、少しは赤ん坊には伝わっているような気がする。
 
次のW杯では、赤ん坊はもう赤ん坊ではなくて、成長した娘として、一緒に観戦できるだろう。今回のアジア杯は、最後で負けたのは悔しかったが、決勝まで進むことができた分、試合を重ねることができた。負けたことで得たものもあることだろう。まだまだ先がある。次はコパ・アメリカか。またサッカーを観るのが楽しみだ。

6畳の世界

赤ん坊がいるのは6畳の和室。どうやら、赤ん坊はこの6畳の広さを目一杯楽しむことができるようになってきたようだ。
 
今日の仕事中、妻が動画を送ってきた。それは、赤ん坊が部屋の端から端まで動き回る様子だった。まだ前方向へハイハイをすることはできないが、後ろにはどんどん動いていく。少し前まではお腹を中心に方向転換をしていたが、今日見ていたらもう手で方向を変えることができるようになっている。
 
世界が広がったからか、この3日間くらいで赤ん坊はお転婆具合が増しているようだ。1ヶ月前くらいからお転婆な感じはあったが、この3日間のなんでも好奇心を示す感じは凄まじく、力も強くなっているから圧倒されてしまう。あちこちに動きたがり、何かを掴みたがり、舐めたがり、見たがる。妻にも僕にも引っ掻く。抱っこしていると、急に頭突きをしてくる。攻撃しようという意図があるのではないことはわかるが、とにかく痛い。妻が痛がっている顔をしていると、それを見て笑う。
 
これからさらに大変になりそうな感じはするが、同時にさらに楽しくなりそうな感じもある。少し前が懐かしくあり、今で精一杯で楽しくもあり、先が楽しみでもある。さすがに産まれた頃のことはかなり前のように思われるが、「今」という時間をとても長く感じている。「今」は瞬間でもあれば、ある一定の長さを持った時間でもある。瞬間の濃度は高く、今という時間はとても長く感じる。赤ん坊が見せてくれている時間だ。
 
最近は家に帰って赤ん坊の顔を見ると、機嫌よく笑いかけてくれる。あんな笑顔を投げかけてくれる存在がいるというだけで、世界が肯定されるように感じる。ただのノロケ話である。

平日昼間の高校生

さっき珈琲を淹れているときに懐かしい感覚が襲ってきて、珈琲を淹れながらもしばらくそれが何であるか考えを巡らせていた。今日、街に出ると、平日の午後2時ぐらいだったにもかかわらず、たくさんの高校生がいた。妻はちょうど中間試験の時期じゃない?と言っていてそのときは僕も納得したが、果たしてそうだったのだろうか。こんな時期に中間試験をするだろうか。珈琲を淹れる前に見ていたテレビ番組で高校生が出ていたことから、その午後のことについて思い出し、懐かしい感覚が高校生と関係があるような気がした。
 
そうだ、なぜもっと早く気がつかなかったのか、この時期は受験シーズンである。僕は受験シーズンの頃の自分を思い出していたのだ。母校の大学のホームページを見てみると、入試は明日とある。母校は関西にあるが、福岡にも入試会場があって、当時長崎の高校に通っていた僕は、前の晩からホテルに泊まって入試を受けた。おそらく僕の頃の入試も同じ時期だったと思うので、まだ18歳だった僕は、大きな不安と小さな自信と、そして期待を持って福岡にいたはずだ。思い出した。入試前日、博多駅近くのホテルに泊まった。たしか夕方ころにホテルに着いて、少し勉強したかは覚えていないけれど数時間ホテルでゆっくりして、お腹が空いたので外に出た。別にコンビニでよかったのだが、目についた吉野家に入った。しかし店の中で食べる気にはならず、持ち帰りができるはずだとは思っていたので、入ってキョロキョロと店内を見渡して、モゴモゴと小さな声で持ち帰りであることを伝えると、聞こえなかったのかもしくは持ち帰りをしていない店だったのか、怪訝な顔をされてそこで心が折れてしまった。「もういいです。」と言って店を出て、結局コンビニで買ってホテルで食べた。そのとき嫌な気持ちにはなったけれど、入試前日に幸先が悪いなぁなんてことは思わなかったと思う。入試以外のことはどうでも良かった。福岡にいたその日、すべてはとても強い指向性で翌日のためにあって、その他に起こった些細な出来事はすぐに抹消された。
 
今日見た高校生はとても希望に満ちた顔をしていた。リラックスした表情の高校生が多かった。僕個人的な記憶だが、入試1ヶ月前は追い込みで勉強して結構ピリピリしていたが、1週間を切るくらいになると、勉強は相変わらずしていたとは思うけれど、ピリピリした感じはなかったように思う。やれることはやって、あとは入試に臨むだけだった。入試のために福岡に行ったり東京に行ったりすることも楽しみだった。今日の高校生の表情はなんか良かったなぁ。彼らの表情で、数年前の自分のことを思い出したのだろう。

2019/01/30

脳科学者の茂木健一郎さん。Twitterでもフォローしているし、たまに彼の出演しているテレビ番組を観ることはあるけれど、これまで彼の書いた本を読む機会がはなかった。フォローしているくらいだから、もちろんTwitterで彼の文章には触れたことはある。でも、Twitterではツイート数が結構多い印象で、ミーハーな話題についても積極的に発言していてスルーすることが多く、あまり真剣に読んだことがない。それに、いつかSwitchで頭を振りながら尾崎豊を熱唱しているところを目にして、あ、この人かなり変だな、と完全に僕の中で彼のイメージが作り上げてしまった。一度作り上げたイメージというのは、すぐに自動化してしまうから、茂木健一郎さんを見ると、あ、変な人だ、避けなければとと思ってしまう(いま改めてTwitterを見てみると、Tweetの数が特別多いわけではなかった。単なる印象だった)。
 
数日前、ある雑誌に彼の書いたエッセイの連載が載ってあった。気は乗らなかったけれど、その雑誌のトリのような形で一番最後のページだったし、他の人が書いた雑誌内のどの記事もすごく良かったから、読んでみることにした。「子供の領分」のことと、モーツァルトのことを書いた文章だった。あまりにも素晴らしく、読んでいて引き込まれる文章だった。文章を読んでモーツァルトが聞きたくなった。こんな文章が僕は読みたく、そして書きたいのだと思った。もう絶版のようだったが、中古ではすぐに見つかったので、すぐにそのエッセイがまとめられた本を注文した。
Twitterではこんな素晴らしい文章を書く人だとはとても思えなかった。連載だから、Twitterのように気軽に書かれた文章でないということも大きいと思うけれど、茂木健一郎さんの文章は、ある程度の長さがなければわからないのかもしれない。僕が勝手に作り上げたイメージで、あんなにも素晴らしい文章を読む機会をなくしてしまうところだった。

赤ん坊と2人でお留守番

妻に約束があったため、午前中は赤ん坊と2人でお留守番。
 
はじめ1時間半くらいは機嫌よく遊んでくれていたのだが、それからぐずり始め、ミルクをあげてもぐずりはおさまらず、30分ほど抱っこしながら部屋を歩いてようやく落ち着いた。1秒でも離れるとギャン泣きすることはわかっているので、トイレにも行きづらい。妻に後で相談すると、離れざるを得ないときにはギャン泣きしても仕方がないから離れて、遠くからでも声をかけて、赤ん坊のもとに戻ったときに「待っててくれてありがとうぉ!」とハグしてあげるようにしているとのことだった。なるほど。
 
グズりとギャン泣きに悪戦苦闘し、13時を少し過ぎたくらいに妻帰宅。ようやく落ち着いたころには、どっと疲れてしまっていた。
 
妻は仕事よりも赤ん坊の世話の方が楽だと言っているが、僕にとっては仕事よりも赤ん坊の世話の方が大変だった。赤ん坊と2人で過ごすのは幸福な時間ではあるけれど、改めてその大変さを思い知った。妻ばかりに頼るわけにはいかないし、妻にもヨガなどにも積極的に行ってほしいから、これから少しずつ赤ん坊と2人の時間に慣れていかなければならない。
 
赤ん坊はだいぶ腰が座ってきたようで、座りの姿勢を取らせるといつもと違う視線だからから機嫌がよくなる。1ヶ月以上前に購入したときには嫌がっていたバンボに試しに乗せてみると、機嫌よく座っていた。
 
最近は、起きているときは、仰向けの寝た状態でいる時間と、寝返ってうつ伏せの状態でいる時間が半々くらいの割合になってきている印象だ。仰向けの状態でいても、すぐに寝返ってしまう。仰向けの状態で遊んでいる姿は可愛らしくてとても好きなのだが、その時間が徐々に少なくなっているのは寂しい。あっという間に、仰向けで遊ぶ時間はなくなって、そのかわりに座って遊ぶようになり、それがハイハイして、立って、歩いて、走るようになるのだろう。今のこの時間というのは、本当に今しかないのだ。毎日毎日が、一瞬一瞬が大切な時間である。

Vampire Weekendの新曲は最高だ!

Vampire Weekendの新曲がとてもいい。今年中には新譜が出るとのことで今から楽しみだ。昨年のFuji Rockでのライブは、ハッピーなライブだった。Bob Dylanの後の出番で、僕はBob Dylanのライブに満足してそのまま帰ってもいいくらいの感じでいたのだけれど、ライブが始まるとそのハッピーな雰囲気にすっかり魅了されて、結局最後まで観てしまった。どの曲を聴いても、彼らにしか出せない感じがあって、聴く人を幸せな気持ちにさせること、決して不快な印象は与えないのはすごいと思う。以前一度だけ会ったことのある人が、せっかく音楽を聴くのだからハッピーな気分以外になりたくないと言って勧めてくれたのが、ベル・アンド・セバスチャンだった。ベル・アンド・セバスチャンもハッピー感はすごいが、Vampire Weekendは個人的にもっとすごいと思う。
 
2月にはベイルートの新譜だ。最近なかなかレコードを聴くことができないでいるが、赤ん坊が大きくなればまた聴く機会も増えると思うので、レコードとCDどちらも購入する予定でいる(こんなことしているからすぐに金がなくなる。あと10日間、食費以外に使える金はもうない)。前作『No No No』はこれまでのベイルートのアルバムでも、最もよく聴いたアルバムとなった。ベイルートだけでなく、すべてのミュージシャンが出したアルバムの中でも、再生回数はトップ10に入るのではないだろうか。『No No No』はとても聴きやすい。自然体で無理なく聴くことができる。それでいて、ベイルートらしさがある。ライブに行きたくて行きたくて、でも行けないからYouTubeでライブ映像ばかり見ている。今年新譜が出るから、来日してくれないかと期待している。
 
Vampire Weekendもベイルートも僕と同世代、ほぼ同じ歳だ。同世代だから響くものがあるのかもしれないけれど、彼らの音楽は僕らの世代を越えていく気がする。Vampire Weekendはしばらく新譜が出ていなかったから心配だったが、今回の新曲を聴く限りだとパワーアップしている、僕は新曲がこれまでの曲で一番好きかもしれない。それにカップリングの曲は細野晴臣のカバーだ。世代を越えて、国境を越えて、違う形になって受け継がれていく。James Blake、ケンドリック・ラマー、カマシ・ワシントン。同世代の彼ら、日本で言えば星野源だってそうだし、ceroもそうだし、最近知ったけど折坂悠太とか中村佳穂、少し下だと青葉市子ちゃんやnever young beachなど、みんな既に有名で、これからは世界中で知られるようになって、影響を与えることになるだろう。新しいのと同時に、これまでの音楽へのリスペクトもあって、聴いていてとても楽しくなる。
 
Vampire Weekendを赤ん坊に聴かせてみると、機嫌よく手足をバタバタさせていた。赤ん坊もハッピーになる音楽なんだろう。明日久しぶりにウクレレベイルートの曲練習しようかな。

笑い返すということ。

ぐずっていない限り、赤ん坊は笑いかけるとたいてい笑い返してくれる。僕らから笑いかけられているということが、赤ん坊にとっては嬉しいことで、その嬉しいことの表れとして笑っている可能性が高いが、もしかすると既に僕らが言うところの愛想のようなもので笑い返してくれているところもあるのかもしれない。
赤ん坊が笑い返してくれるというのはとても嬉しいことで、笑い返しに僕もさらに笑い返して、それでまた赤ん坊が笑い返すという、どちらかがやめない限りずっとループして、笑い合い遊びのようになることがよくある。笑い返してくれると僕は心から幸せな気分になる、だからさらに笑い返す。赤ん坊はきっと、笑い返すと僕が幸せな表情をすることを知っている。赤ん坊は僕らのことをよく見ている。
 
大人になっていくにつれて、笑うということはどんどん複雑化していく。嬉しいかったり面白かったりすることの表れだけではなくて、実は反対に怒りの感情があるのに笑っていたり、嬉しくも怒りも何の感情も持っていないのに、ただ相手をいい気分になるためだけに笑ったり、相手を怒らせるために笑ったり。それだけ多様な笑い方があるというのは、笑うことの効果を物語っている。
そういった笑いは、赤ん坊に笑い返す表情とはやはりどこかが違っている。僕は赤ん坊に笑いかけるときには無理に表情を作ることはないが、大人の都合で笑わなければいけないときには表情を作る必要がある。作る表情にはどこか強張りがある。使わなくてもいい表情筋を無理やり使っているような感じだ。当たり前だが、作った笑いをたくさんした後は疲れる。
 
よく目が笑っていないと言うけれど、僕が赤ん坊に笑いかける時、赤ん坊はだいたい僕の目を見ている。嬉しい感情以外で赤ん坊に笑いかけることはないから、目が笑っていない表情になっていることはないと思うが、もし目が笑っていないとすれば、赤ん坊はすぐに気づくだろう。
 
本当は赤ん坊に笑いかけるときのようにいつも笑うことができればいいのだろうけれど、それはとても難しいことだ。さも大人の複雑化した笑いが悪いことであるかのように書いたけれど、それは僕がそういった笑いが苦手なだけで、悪意のある笑いでなければ、大人の笑いであっても笑いはある方がいいと思う。
赤ん坊のように、笑いかけられれば笑い返すのがあるべき振る舞いだと思う。だが、自分の行動を振り返ったとき、僕は笑いかけられても笑い返していないことが結構あるような気がする。それは先にも書いたように複雑化した笑いが苦手というのもあるし、単純に人見知りということもあるし、何より作り笑いをすることが好きではないし面倒くさい。ダメな大人だ。
 
赤ん坊に学ぶことは多い。笑い返されるということがどれほど嬉しいことか。考えれば当たり前のことだけれど、いちいちそこまで立ち返って考えることはない。
 
笑いかけられたら笑い返そう。