Life Itself

生活そのもの

初ずりばい。

今日、ついに赤ん坊がずりばいをした。初ずりばいである。
数日前から前に進みそうな感じがあったのだけれど、コツを掴んだのか、前に進み始めた。まだぎこちなくはあるけれど、確実に前に進んでいる。方向転換はもうお手のものだし、ずりばいができるようになったことで、これからは自らの足と手で自分の興味があるところに移動することになるだろう。
 
ずりばいだから、まだハイハイではない。ハイハイに至るまでの過程の動きだ。だが、僕らがそれを何という言葉で呼ぼうが、赤ん坊にとっては前に進むということに変わりはない。どんなにぎこちなくったって、前に進むことがさえできれば、赤ん坊にとっての意思はひとまず達成されたことになる。ぎこちなさから生じるもどかさはあるようだけれど。
 
前に一歩進むまでに7ヶ月半ほど。前に進むというのは、赤ん坊にとって、そして僕らにとっても大きな成長だとは思うけれど、この一歩進むまでに見せてくれた1つ1つの成長があるからこその1歩である。たった1歩進むだけに7ヶ月半要するというのはとても長く感じられるが、この一歩までの成長を傍で見てきた親の立場から言えば、7ヶ月半というのは決して長くはなくて必要な時間だったと思うし、赤ん坊が見せた成長は前に進むということだけではないから、むしろ7ヶ月半でこれだけ多くのことができるようになるのかとその成長の「量」に驚いている。
 
1歩に至るまでの過程。赤ん坊が毎日のように見せてくれる変化、成長。僕らは1歩に至るまでの自らの過程を知らないから、赤ん坊を通して初めて知ることになる。もちろん、今回赤ん坊が初めて1歩進んだとき、既視感は全く覚えなかった。自ら体験しているものなのに、他人である赤ん坊を通してしか知ることができないのだ。物心ついたときには、もう自由に歩き回っていた。
赤ん坊にも記憶はあるはずだが、赤ん坊の頃の記憶は一体どこにいってしまうのだろう。僕ら親は赤ん坊の成長を見ることはできるが、それは言葉として伝えることしかできないし、すべての成長をそのまま伝えるなんてことは無理だ。たとえ毎日24時間赤ん坊の行動を映像として撮るとしても、それはあくまで赤ん坊を撮っているのであり、赤ん坊が見ているもの、記憶そのものまでは撮ることができない。
 
僕らは、自分自身の赤ん坊の頃のことは、永遠に知ることができない。
 
赤ん坊はきっと今日のことは忘れてしまう。覚えているのは僕と妻だけだ。赤ん坊は必死に日々を生きている。この日々を思い出として記憶するのは、赤ん坊自身にもできないことで、傍にいる親の特権なのだ。僕ら親は、赤ん坊のために記憶するのではなく、僕らの思い出としてただ記憶すればいい。赤ん坊のために覚えておくというのは、ただのエゴなのかもしれない。