Life Itself

生活そのもの

2018/12/17

昨夜から少し心が乱れている。ささいな言葉がきっかけではあったけれど、その言葉を受けて、自分がなぜ今の生活をしているのか、なぜこの日記を書いているのか、なぜヨガをしワークアウトしているのか、よくわからなくなってしまった。気持ちが悶々として、書くにも何を書いたらいいのかわからない。
 
日記を書く意味はあるのか、と自分に問えば、意味はあるのかもしれない。毎日を言葉にしていくことで、この1年はようやく前に進んでいる感じがあった。発症した脳の症状、家庭を持ったこと、赤ん坊が産まれたこと。小さいとは言えない変化を伴うこの1年の日々を生きていく中で、毎日の振り返りとして言葉にすることが、自分にとってどれだけの助けになり、心の安定剤となっただろうか。言葉にすることで、ときに受け入れることが難しい変化を、咀嚼しわかりやすくするという作業をしていかなければ、僕の性格上、きっとどこかに綻びが生じていた可能性が高い。そんなことは今になってはわからないことだし、考えても仕方がないんだろうけれど。
 
しかし、これから先、ブログとして公開していく意味はあるのだろうか。この点についてはもう一度考え直してもいいのかもしれない。こんなブログ、誰が読むわけでもない。将来、僕の家族が読んでくれる可能性もあるが、それならば紙ノートやクラウド上のノートとして残すだけでいいのではないか。わざわざ公開する必要はどこにあるのだろう。
いまは冷静に考えることができないから、この点については時間を置いて改めて考えたいと思う。
 
赤ん坊がハイハイをするときは本当に近そうだ。這いつくばって前に進む動きは昨日と今日でできてしまっている。ただ、いわゆるハイハイの形にはなっていない。赤ん坊は変化を受け入れるのが本当に上手だ。