Life Itself

生活そのもの

2018/10/08

赤ん坊の首がほぼすわったようだ。縦抱きしても、ぐらつくことなく首を右へ左へと回す。僕のお腹にもたれさせ、座らせることができるようになった。座ったときの赤ん坊の顔は寝ているときとはちょっと違うように見える。目が少したれているように見える。重力にまけて、頬も少したれる。
 
今まではベビーカーにチャイルドシートを合体させて使っていたが、3ヶ月を過ぎてからベビーカーだけで利用できるようになった。そもそも、2週間前くらいからチャイルドシートでは赤ん坊は窮屈そうにしていた。ベビーカーにしてから、赤ん坊はとても快適そうだ。この前プレゼントでもらったサングラスもよく似合っている。
今日ベビーカーに乗せて公園へ連れて行ったところ、興味深そうに景色を眺めていた。チャイルドシートを合体させていた時は、景色を眺めることもなくすぐに寝るか、泣きそうになるかどちらかだった。家ではあまり見ない顔をしていた。外で赤ん坊を見ると、肌の色がとても白く見える。
 
一昨日から、金木犀の香りがしている。
 
今日は朝から『人生フルーツ』を観た。本当は妻が観に行く予定だったのだけれど、すでに一度二人で観に行ったこと、また僕のほうがこの映画を観ることを必要としているだろうから、と言われ、その機会を譲ってもらった。
映画館は超満員。補助席まで用意してあった。夫婦で観に来ているかたが多いように見えた。『人生フルーツ』は家族で観たら、とてもいい映画だと思う。
 
「できることから、少しずつ、コツコツと」。津端夫婦のこの言葉はとても強い力を持っている。
よく言われている言葉かもしれないが、映画を通して夫婦の生活の様子、生き方を見ると、この言葉が持つ重みに気づく。
「できることから、少しずつ、コツコツと」することが、生活に、人に、どれだけ影響を与えるか。そして、それがいかに難しいか。
 
この言葉が示すことは、「できることだけをやっておけばいい」ということではない。「自分にできることは、人に任せるのではなく、自分でやっていく」ということだと思う。
 
津端さん夫婦の生活を見ると、できることは自分ですべてやっている。作物を育てること、障子を変えること、髪を切ること、コンビニで買うのではなく調理すること、既成品を買うのではなくてまず自分で作ってみようとすること。津端さん夫婦は無理なくやっているように見えるが、僕がそれをやろうと思ったら、きっと面倒くさいと言って途中で投げ出したくなるものばかりだ。とてもいい生活だとは思うけれど、津端さん夫婦のように生活するのはとても難しい。
 
お金を払うことで解決していることは、実は自分でできるものなのではないか。そう自問することからは始まるのだろう。僕ふくめて、多くの人は自問すらしない。お金で解決することが当たり前になっているからだ。時間がないから、調理が面倒くさいから、片付けが面倒くさいから、コンビニで買うことが当たり前になっている。
 
自分でするのは難しいように見えても、やってみればできないことはないかもしれない。少しだけでもいいから、まずは自分でやってみること。それをコツコツと続けていけば、知恵がつき、自分でできることが増えていく。少しずつでも、できることをコツコツやっていくことで、見えてくるものがある。
 
難しいなぁ。とても難しい。どうしても面倒くさいという気持ちが出てきてしまう。しかし、面倒くさいと言っていられない状況もある。赤ん坊にコンビニ弁当を食べさせるわけにはいかない。
できることはなんだろう。毎日料理することはやはり手間がかかることなんだろうか。毎日料理をしたことがないからわからない。そう、僕は毎日料理をした経験がないのだ。そのことにようやく気づく。
「できることから、少しずつ、コツコツと」。
妻ともよく話し合う必要がありそうだ。僕にも料理はできるだろうか。妻の料理を手伝うことができるかもしれない。

2018/10/07

朝はなんともなかったのに、仕事後に歩いていると左脚の膝が痛かった。仕事中の8時間の間、ほとんど歩いておらず、座りっぱなしの状態であったにも関わらず、身体に変化があったということは、座り方に原因がある可能性が高いということだ。思い返してみれば、左足を右脚の膝の上に置いた状態で長い時間座っていた気がする。それで痛めてしまったのだろう。
 
仕事中の座り方なんて無意識そのものだ。座り方を変える時はたぶん居心地わるいなーとか思いながら変えているのだろうが、変えた10秒後にはなんとも思っていない。座り方を変えたことすら忘れ、その座り方に落ち着いていている。落ち着いているのは、身体の癖がそうさせてしまっているだけで、とても負担がかかる座り方だ、立つ頃には身体は悲鳴を上げている。当の本人はそれに気づいていない。
まだ貧乏ゆすりでもしている方がいい。少しずつ揺れているのだから、身体は固まらない。僕の座り方は、身体が悲鳴をあげるギリギリまで同じ状態をキープするから、どんどん身体が固まっていく。自分の身体に気づきながら仕事をするのはとても難しい。特に忙しいときは、PCの画面以外何も目に入ってこない。呼吸もPCの画面に吸い込まれていっているようで、とても短く、浅い。PCを見ているのではない、目がPCに固定されているのである。見ているという意識はない。
 
赤ん坊の目を見ていると、僕と目があっているのだが、何を見ているのか黒目がキョロキョロと動いている。顔の中にも視線が動くポイントがあるのだろうか。眉毛、目、目の中にも白目と黒目、鼻、耳、口、顎、髭。
黒目の中には僕の首より上が映っている。赤ん坊の中では、僕を僕と認識して終わりではない。認識してからが本当に面白いところなのだ。顔のいろんなところを見ていく。毎日毎日顔は変わっていく。楽しそうな顔、疲れている顔。眉毛、髭は伸びる。たまに鼻毛だって出ている。
赤ん坊は僕の顔をしっかりと見る。僕が鏡で自分の顔を見るよりもずっと真剣に。見ることに集中している。

2018/10/06

正午ぐらいまで台風による風が凄まじく、予定していた映画を観に行くとができなかった。残念だが、仕方がない。
 
昨日で毎日ヨガをするようになって2ヶ月が経過した。1ヶ月目は体重が2キロ減少していたが、今回は1ヶ月前と同じ体重だった。それも当たり前の話で、毎日ヨガをしていると言っても、ほぼ太陽礼拝しかしていない。太陽礼拝のAを3回、Bを2回の計5回。日によってやる量を変えるということをあまりしたくなかったので、体調が悪い日でもできる量であること。あとは帰宅してから食事をするまでの間にするため、食事が遅くならないように、妻と赤ん坊に迷惑がかからないように、短時間でできる量であること。それを考えた結果の量ではあるのだけれど、少なすぎるのかもしれない。
それだけの量では身体への負荷もあまりかからないのも最近感じていることではある。最初の1ヶ月こそ、部屋の中もまだ暑く、終わる頃には大量の汗をかいていたが、最近では涼しくなったこともあって、そこまで汗をかかなくなった。毎日やることで慣れてきたということもあるだろう。5回では物足りないと思う日も多くなってきた。量を多くすることを考えてもいい時期になっているのかもしれない。少なくとも太陽礼拝Aを5回、Bを3回くらいはやってもいいだろう(ヨガをしている人の多くは、最低でもそれくらいはしているはずだ)。
 
大事なことは毎日やること、とは言っても最低限の負荷は必要である。
この日記もそうだけれど、最低1行でもいいからとにかく毎日書くという気持ちでやってはいるが、書いたと実感できる程度の量を書かなければどこか気持ちが悪い。
ヨガもおそらくそうで、ヨガをやったと実感できる程度の筋肉への負荷、汗の量というのは必要なのだ。

2018/10/05

今日、赤ん坊が生後3ヶ月目を迎えた。順調に育っている。
妻が気づいたことだが、何かを掴むとき、両手を一度広げてUFOキャッチャーのように挟むこむようにすることは変わりないのだが、掴んだあとは右手左手と掴み直すようになっている。昨日まではそのようなことはしていなかったので、これが3ヶ月目初日に見せた変化だ。徐々に自分の意志のままに手を動かすことができるようになってきているのだろう。
 
また明日は台風が近づく。
あまりにも天候がひどくなければ、朝から映画を観に行く予定だ。天候で映画館が閉館するということもないだろうが、下手に外に出て怪我をするのが怖い。
同じ映画を、妻は月曜日に観に行く。赤ん坊が産まれる前に2人で観に行って、心から感銘を受けた映画なのだが、期間限定で再上映される。
無事行くことができればいいのだけれど。

2018/10/04

今日も赤ん坊を連れて街へ行った。雨が少し降っていたので、ベビーカーにレインカバーをかぶせて。
 
ベビーカーを押しながら歩くことで、今までは認識することがなかった道路の状態を認識するようになることを以前書いたが、今日街に出ていって、その音のうるささを認識した。
電車が来るときの音、トラックや車が走る音、店の中のBGM、人の話し声。街の中はとにかく音に溢れ、またその音量が大きい。うるさい。妻はデシベルデシベルと呪文のように何回も言っていた。
今までもうるさく感じたことがなかったわけではなかったが、赤ん坊と一緒にいると、より神経質になる。
 
赤ん坊と一緒に行動すると、赤ん坊の感覚がどれくらい敏感かはわからないが、彼女の感覚にあわせようとして行動するようになってくる。今まではないことにしていた、もしくは気づいていなかった音や臭いや地面の障害などの、感覚を刺激してくるものすべてを拾うようになってきた。神経質になりすぎなのかもしれないが、それはそれで新鮮で楽しいものである。敏感に感じ取っているとは言っても、なにも浴びるようにただ受け止めているのではなくて、うるさいものをうるさいものとして、臭いものを臭いものとして、地面の凸凹を凸凹として認識しているだけのことである。その存在を認識しても、やり過ごす方法は知っているので、ほとんどダメージにはならない。ただ、赤ん坊はやり過ごす方法がわかっていない可能性があるので、僕ら親が赤ん坊とできる限りの同じ敏感さで認識して、赤ん坊にあまりダメージがないように行動していかなければならない。
 
親としての責任というのはいろいろあるだろうが、今僕ら親が感じている責任の1つは上に書いたようなことである。
 
まぁでも、僕らが赤ん坊にとって障害だと思っているものであっても、実は赤ん坊にとっては親しいものである可能性も大いにあるのだけれどね。僕らは心地よいものと不快なものがあるとしたら、それを受け止めたあとに一旦分けて、理性で認識するが、赤ん坊は分けずに受け止めているのではないだろうか。それはカオスだが、とても豊かなものであって、心地よいと不快なものを分ける前のその間にこそ、なにかがあるような気がする。

2018/10/03

お風呂に入れたばかりなのに、お風呂でしっかり洗ってきれいにしたことも確認したのに、30分後の赤ん坊の手にはホコリがいっぱい付いている。赤ん坊が自ら掴んでいるのか、それともホコリが赤ん坊の手に寄ってくるのか、どちらなのかはわからないが、とにかく赤ん坊の手とホコリは親密な関係にあるようだ。
 
今日赤ん坊を連れてマリノアシティに行った。モール内を一通り歩いて見て回ったが、大したものはあまり見つからず、最後に駐車場の目の前にあったトイザラス・ベビザラスに行くことにした。
僕が小学校のときに長崎のトイザラスに行って以来、トイザラスには行ったことがなく、これまで縁もなかったのだけれど、今日20年以上ぶりくらいに行って驚いた。何に驚いたかと言えば、その品揃え、便利さだ。
トイザラスとベビザラスが一緒になっているのだが(すべての店舗がそうなっているかは知らないけれど)、ベビザラスには赤ん坊関係の商品が何でも揃っている。おむつもミルクもおしゃぶりもベビーカーもベビー服も絵本もおもちゃも、とにかくなんでも揃っていて、すべてがそこで揃う。
今回はそもそも赤ん坊のためのものを見に行くことを一つの目的にしていて、それでいろいろ見て回ったのだけれど、赤ん坊関係のものはベビザラスにあった。ウィンドウショッピングしながらモール内を歩き回って、それはそれで気晴らしになったし、いい運動にもなったのだけれど、赤ん坊の商品を買うことが目的であれば、ベビザラスにだけ行けばよかったのである。ベビザラスに行き着くまでに何もなくて少しがっかりしていただけに、ベビザラスの便利さには感動すら覚えてしまった。
 

2018/10/02

体や心がどんよりと停滞した状態のときは、そこに激質なもの、熱を与えてあげたほうがいい。それは体験上、なんとなく感じることができる。
 
流れるままに、ありのままにというものほど難しいものはない。あるがままの状態で生活していくためには、そのあるがままの状態がある程度清らかである必要がある。どんよりとした状態をわかっていて、ありのまま生きていくというのは、諦めの境地であり、たぶんそれは他人から見ても「わかった風」にしか捉えられない。
 
今の世の中は、情報に溢れた競争社会がある一方で、その反発としてかわからないが「ありのままであるべきだ」という風潮があるように思われる。ヨガが流行っているのもきっとそういうところからきている。性格的にあまりガツガツしたところがない僕にとっては、「ありのまま」という考え方がすごく心地よかった。それで、バガヴァッド・ギーターだったり、ヨガスートラだったり、その他ヨガ関係の本をたくさん読んだし、タオの本も読んだりした。でも、ありのままでずっといることにどこか違和感がでてきた。たぶん心地よくなくなってきたのだと思う。単にぐーたらぐーたらしていて、何もしていないような気になった。実際に何もしていなかった。
 
ありのままである前に、自分のいまの状態というのをしっかりと把握しなければいけない。どんよりと停滞していたり、逆にガツガツと熱を持ちすぎていたら、それを中道に持っていくように努力すべきだ。中道に持っていくやり方として、ヨガや瞑想はとても有効な方法だと思う。
 
ありのままというのは努力した先にあるものだと思う。赤ん坊はありのままでいいけれど、一度言葉を覚え社会に出てしまうと、いろんな垢にまみれてしまう。垢がついたまま、ありのままでいるというのはとても不潔だ。努力して垢をとったあとに、ありのままであればいい。
 
どんよりとしがちな僕には、熱が必要だ。並大抵の熱では、このどんよりした感じは解消されない。
ありのままでいるという気持ちはしばらくは忘れたほうがいい、最近そんな気持ち。