Life Itself

生活そのもの

2018/10/01

オーボールを掴むようになってから、赤ん坊は視線の先に何かを置くとそれに興味を示して両手で掴もうとするようになってきた。
僕ら大人の手もそうだ。赤ん坊の視線の先で手を動かすと、それを掴もうとする。その掴み方が猫のようで、パーではなくグーに近い軽く握った手で、挟み込むように掴んでこようとするものだから、とても可愛らしい。何かを掴む時はいつも機嫌がよく、ニコニコしている。
 
今はとにかく目で何かを捉えるとそれを掴むことを楽しんでいるようだ。
 
月始はとにかく忙しい。トイレに行く余裕もないくらいだ。しかし、今は忙しさに追われるくらいがちょうどいい。家に着く頃には考える気力もなくなっているから、余計なことを考えずに済む。赤ん坊と接すると疲れは和らぐが、そのままぼーっとしたままの状態でいられる。

2018/09/30

数日前のストレスが今もまだ続いている。1日中イラつくことはないけれど、思い出しては心がざわつく。ヨガをやっている間ですら、呼吸と呼吸の合間にイラッがやってくる。何がそうイライラとさせるのか、よくわからないところがある。だが、あるものに対して極度の嫌悪感を抱いていて、これまでとても密接に関わってきたものから離れたいという気持ちが出てきている。今頃出た反抗期か?そうかもしれない。しかし日々の生活にまであまりにもずっぽりと入っていたものだけに、それに対してこれほどの嫌悪感を抱くというのもなんだかなぁ、大人げないなぁとそんな感じで。自分に対しても少しイライラしているのである。
 
昨日、妻から僕は生活を全く犠牲にしていないと言われた。それもまさにそのとおりで、大いに反省すべきところであるのだけれど、今の豆腐のメンタルにはぐさっと突き刺さった。どストレートの正論。何も言い返すことができないほどの正論。ぐふ。おほほ。あはは。笑ってはいけない。この点に関してはただただ反省すべきで、休みの日はもっと妻のことを支えにゃあならん。そらそうだ。いや、支えるという言い方がだめなのだろう。僕も一緒に育児をしないとあかん。あかんと言ってもだめだ。僕も育児を楽しみましょう、きっとそういうことだ。
ずっと赤ん坊が可愛いことには変わらんのだが、僕は傍観者であったのかもしれない。
 
数日前から町田康を読んでいるのがなんだか救いであるような気がする。文章のリズムは心は揺さぶり、そして体まで揺さぶる。僕は揺さぶられて、心も体もほぐれ、少しマシになった気がする。少し町田康っぽく書いてみると僕も気持ちがいい。

2018/09/29

昨日は久しぶりの飲み会で結構飲んでしまい、今日は二日酔いのような症状で夕方までほとんど動くことができなかった。
とりあえずヨガをして、夕食を食べ、赤ん坊の沐浴をして今に至る。1日ほとんど何もしていないが、明日も仕事なので夜更かしもできないから、1日無駄にしたようなものだ。仕方がない。
 
しかし、明日の台風は大丈夫だろうか。会社からは、交通機関に影響がない限り出社をするように言われている。
 
赤ん坊はますます大きな声で喃語を話すようになっている。腹から声を出しているような感じで、部屋中に響くことがある。

2018/09/29

・会社の飲み会があったから、いつもは仕事後に行うヨガを、今日は朝起きてすぐにやった。ヨガと言っても太陽礼拝だけだ。
朝にヨガをすることは初めてではないが、寝起き直後の体の硬さを改めて知った。ヨガ始めたての頃くらい硬く、起きたてで鼻も通らないから呼吸もままならない。だが、太陽礼拝の回数を重ねていくうちに、少しずつではあるけれど、体がほぐれていき、呼吸も楽になった。体がほぐれたから、いつもより気持ちよく出社することができた。
 
ヨガとは離れたい気持ちになっていたけれど、ヨガをやること自体は、体がとても喜ぶことで良いことだと思う。余計なことは何も考えずに、これからも毎日ヨガをすることは続けていきたい。
 
・飲み会の間にも赤ん坊のことが気になる。赤ん坊の写真を眺める。僕は、この現象界に対して、二元論的な生の世界に対して、完全なる執着心がある。赤ん坊が成人する姿を見たいという"エゴ"がある。赤ん坊と妻が、もっと言えば両親や弟や猫を含めた家族、そして周りの友人がいない一元のブラフマンの世界なんぞクソくらえとさえ思う自分がいる。カルマと言われれば、きっとそうなのだろう。僕はそれに対して否定する理由はない。
この現象界が見られるものであるとしたら、僕は見るものにはなりたくない。そのまま見られる世界にとどまりたいと思う。たとえそれが対象化された一時的なもの、永遠ではなく、本来のものではないとしても。

2018/09/27

昨日、とてもストレスの溜まる出来事があって、今の今まで引きずって、思い出してはイライラしてしまう。いくらヨガスートラを勉強しようが、呼吸に集中しようが、強いストレスのかかる出来事があったらそれにとらわれてしまう。僕は弱い人間だ。喜怒哀楽がはっきりしているし、感情を表に出しやすい。悟った(風な)人に言わせると、僕は現象界での出来事に執着しているだけなのかもしれない。真我とともにあれ。わかったようなことを言わないでほしい。「真我」という言葉や「つながり」といったものは、言葉や概念としては理解できなこともないけれど、それが「わかる」というのはどういうことなのだろう。あまりにも簡単に「わかる」と言う人が多すぎて、ときに困惑してしまう。一度わかった気になったら、その立場からものを言ってくるから面倒だ。これは僕の日記なので、誰にも構わず言ってしまおう。
 
今日は在宅勤務の日で、昼休みにも昨日の出来事にとらわれて怒りが出ていたのだが、赤ん坊が泣き始めていたのであやすために部屋に向かった。赤ん坊が泣いていたのは、妻が家事をしていて誰も部屋にいなくてたぶん寂しかったからで、僕が赤ん坊の側で横たわると、とても機嫌良さそうにニコニコとし出した。昼休みが終わるまで20分くらい赤ん坊と一緒にいたと思うが、その顔を見ている間は、昨日の出来事を思い出すことやそれに伴う感情が表出することも一切なくて、ただただ穏やかで幸せな気持ちだった。今日は赤ん坊が慰めてくれた。赤ん坊は慰める気なんてなかったに違いないが、無垢な目と笑顔を見ていると、僕の身の回りで起きていることなんてどうでも良くなる。赤ん坊は、その存在だけで感謝すべき対象である。
 
しかし、人の気持ちや状況を考えずに、なぜ自分の考えを押し付けようとするのだろう。そのつもりがなくても、言葉を受け取る側からすると、自分が正しいと思ってその言葉を言っていることがわかるし、言葉の端々にも表れている。親切心からの言葉なのかもしれないが、それこそただの"エゴ"としか思えない(もはや今では使い古された"エゴ"という言葉。批判対象とされているところの"エゴ"は、エゴによって批判されているに過ぎない)。僕は攻撃的な言葉を受け取りながら、幡野広志さんが書いていたことを思い出していた。
 
根拠なきアドバイスは「優しい虐待」である 
(幡野広志,『ぼくがこどものころ、ほしかった親になる。』,株式会社PHP研究所

 

書いているうちにまたイライラしてきた。そうだ、僕は現象界にいるのだ。
今日の残り時間は、ただ赤ん坊と一緒に戯れよう。    

2018/09/26

2週間ほど前に、球型で網目状になっていることから赤ん坊でも簡単に掴むことができると評判のオーボールというおもちゃを購入した。購入したばかりの頃は見向きもしなかったが、昨夜日記を書いた後に左手の方へ近づけてみると自分から掴み、それを左手で顔の方へ持っていって右手でも掴んで、両手でがっしりと固定させた。何をするのかと見ていると、網目状の空間となっている部分に舌を入れたり、網目の部分をペロペロと舐め始めた。
それからというもの、オーボールを見ては機嫌良くなって、自らそれを掴んで遊ぼうとするようになった。
これまでは、タオルケットや手の側に置いてあるガーゼハンカチを掴むことはあったが、自ら掴んでいるのではなく、手の近くにあったらかたまたま掴んでいるといった感じだった。それが昨夜からのオーボールは自ら掴もうとしている!大きな成長の一歩である。

2018/09/25

赤ん坊は、松谷みよ子の『いない いない ばあ』をとても気に入っている。特にくまさんの絵がお気に入りのようで、絵を見るとニコッと笑う。そのうちくまさんのぬいぐるみも買い与えることになるのかもしれない。
絵本を広げると、じっと集中して見る。本好きとしては、どんどん本に興味を持ってくれると嬉しい。
 
ベビーベッドにS字フックでビニール袋を下げているのだが、その方向を向いて赤ん坊が声を上げて笑っていた。ビニール袋に視線が向いているといえばそうなのだが、たまにそこから視線がずれることがあって、何に対して笑っているのかわからない。妻が言うには、授乳中にその口を振り払ってそっちの方向を向いて笑うことが何度かあったらしい。赤ん坊には何が見えているのだろう。僕はあんまり信じないが、もし何か幽霊のようなものが見えたとしても、赤ん坊はきっとそれを幽霊や怖いものとは認識しないし、幽霊から愛想よくされればそれに応えることだろう。ビニール袋に対して笑っている可能性は高いけれど(僕がそう思いたいだけだ)、たとえそうでないとしても、赤ん坊にしか見えていないものがあるとしても、赤ん坊の世界には別け隔てなくすべてのものが映っていて、きっとそこではビニールも幽霊も同列で、もっと言えば僕も妻も同列かもしれない。
 
赤ん坊が見たものはトトロのまっくろくろすけのようなものかもしれないが、赤ん坊はまっくろくろすけという名前すら必要とせず、そこにただあるものとして見て、面白いものだと思えば笑うだけだ。赤ん坊は何を面白いと感じているのか。ひとつは僕らの笑顔だ。ひとつはくまさんだ。ひとつはクラシックの音楽だ。そしてもうひとつはビニールかもしれないし、幽霊かもしれないし、まっくろくろすけかもしれない。わからないけれど、赤ん坊はものを対象化して見てはいないような気がする。赤ん坊(見ているもの)と対象(見られているもの)は、僕らのようにはっきりと分かれてはいなくて、もっと曖昧で、すべてが赤ん坊の中にあるもの、赤ん坊を包むものとして見ているのではないだろうか。