Life Itself

生活そのもの

2018/09/27

昨日、とてもストレスの溜まる出来事があって、今の今まで引きずって、思い出してはイライラしてしまう。いくらヨガスートラを勉強しようが、呼吸に集中しようが、強いストレスのかかる出来事があったらそれにとらわれてしまう。僕は弱い人間だ。喜怒哀楽がはっきりしているし、感情を表に出しやすい。悟った(風な)人に言わせると、僕は現象界での出来事に執着しているだけなのかもしれない。真我とともにあれ。わかったようなことを言わないでほしい。「真我」という言葉や「つながり」といったものは、言葉や概念としては理解できなこともないけれど、それが「わかる」というのはどういうことなのだろう。あまりにも簡単に「わかる」と言う人が多すぎて、ときに困惑してしまう。一度わかった気になったら、その立場からものを言ってくるから面倒だ。これは僕の日記なので、誰にも構わず言ってしまおう。
 
今日は在宅勤務の日で、昼休みにも昨日の出来事にとらわれて怒りが出ていたのだが、赤ん坊が泣き始めていたのであやすために部屋に向かった。赤ん坊が泣いていたのは、妻が家事をしていて誰も部屋にいなくてたぶん寂しかったからで、僕が赤ん坊の側で横たわると、とても機嫌良さそうにニコニコとし出した。昼休みが終わるまで20分くらい赤ん坊と一緒にいたと思うが、その顔を見ている間は、昨日の出来事を思い出すことやそれに伴う感情が表出することも一切なくて、ただただ穏やかで幸せな気持ちだった。今日は赤ん坊が慰めてくれた。赤ん坊は慰める気なんてなかったに違いないが、無垢な目と笑顔を見ていると、僕の身の回りで起きていることなんてどうでも良くなる。赤ん坊は、その存在だけで感謝すべき対象である。
 
しかし、人の気持ちや状況を考えずに、なぜ自分の考えを押し付けようとするのだろう。そのつもりがなくても、言葉を受け取る側からすると、自分が正しいと思ってその言葉を言っていることがわかるし、言葉の端々にも表れている。親切心からの言葉なのかもしれないが、それこそただの"エゴ"としか思えない(もはや今では使い古された"エゴ"という言葉。批判対象とされているところの"エゴ"は、エゴによって批判されているに過ぎない)。僕は攻撃的な言葉を受け取りながら、幡野広志さんが書いていたことを思い出していた。
 
根拠なきアドバイスは「優しい虐待」である 
(幡野広志,『ぼくがこどものころ、ほしかった親になる。』,株式会社PHP研究所

 

書いているうちにまたイライラしてきた。そうだ、僕は現象界にいるのだ。
今日の残り時間は、ただ赤ん坊と一緒に戯れよう。