Life Itself

生活そのもの

2018/05/09

昨日はヨガで、今日はウクレレだ。
週に何回かは、仕事後に趣味のために出かけていることになるけれども、改めて幸せなことだと感じている。
ほとんどがヨガを通じてできた趣味で、どれも1人でやっていたのでは続かなかったのではないかと思う。ウクレレだってずっとやりたいとは思っていたけれど、1人では途中で飽きてやめてしまっていただろう。定期的に何人かが集まるからこそ続けることができている。
 
福岡に来てもう7年になるが、職場以外の友人はほとんどいない。いないが、毎週定期的に会う人は何人もいる。友人と呼んでもいいかもしれないが、どちらかといえば師と同士という感じがする。
 
子どもが生まれれば、これまでのように定期的には参加できなくなるかもしれない。これまでの生活がどのように変わるかまだわからない。だが、1ヶ月1回くらいはヨガやウクレレの回に参加できればいいいと思う。これは妻も同じことだ。互いに協力しあいながら、福岡でできた縁を大切にしていきたい。

2018/05/08

逆子が治った。今日の検査で逆子と言われたら帝王切開の予定を組まなければならなかったので、このタイミングで治ったのはよかった。
 
未だに性別がはっきりとしない。おそらく女の子だが、突起物があってそれが何なのかよくわからないのだそうだ。へその緒ではないという。どちらの性別でも大歓迎だが、そろそろどっちかわかりたいところではある。
 
今日、一眼レフを購入した。出産、子育ての記録用にと。昔から欲しいとは思っていたので、これを機に趣味として続けることができるようになればと思っている。
 
昨日、ほぼ日のエッセイでこんなことが書いてあった。
「習慣的」なことをやめさせる最強の敵は、
 じぶんの弱い意思だとか超多忙とかじゃないのよね。
 風邪、です!
 ただの平凡な風邪が、習慣を止めさせてしまう。
 風邪をひいてなにかを休むのは当然のことですが、
 いつぐらいに風邪が治ったのか判断できないままに、
 「習慣ストップ状態」がだらだら続いてしまうのです。
 これで、あらたにやり直すことがどんどん困難になる。
 読書だとか料理だとかの趣味でも、風邪がじゃまします。

本当にそのとおりで、今日もついさっき帰ってきて面倒だと思いながらも書いているが、帰ってきてPCの前に座るのが癖になっているので、面倒だとは思いつつも、なんとなく書けてしまう。何も書くことがなくても、ただ座っていてぼんやりと前に座っていれば、書いても仕方がない内容であっても書いているものだ。

だが、病気になってしまうとそうはいかない。PCの前に座ることができなくなってしまう。 一旦やめてしまうと、また再開するのに大きなエネルギーを要する。もうやらなくてもいいや、となってしまう。

糸井さんのこの文章を読んで、気付かされた。今までを振り返っても、ほとんどが体調を崩してやめてしまっている。

書くことは心の安定にもなっている。風邪で体調を崩すことがきっかけで、心の安定までが崩れる。体調は回復しても、心の安定を戻すのはかなり難しい。

何よりも健康だ。しっかりと体のケアをしなければ。

2018/05/07

妻と一緒に『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』を観てきた。観終わった後はショックが大きくて、2人で「マジか…」とだけ言って、しばらく言葉が出てこなかった。ガーディアンズシリーズが大好きな僕たちにとっては、彼らラベンジャーズの活躍が嬉しくもあり、しかも物語を大きくを動かす重要な役回りだったので見どころもたくさんあったのだが、あのショッキングな結末を観た後ではただ茫然とするしかなかった。しかし、グルートのあの目は健在で、あの目の動きを劇場で観るだけでも観てよかった。というか、ショッキングな内容だっただけで、映画は文句なく面白かった。できれば、もう一度観たいところだ。

 

妻の妊娠は昨日から9ヶ月目に突入した。赤ちゃんのサイトを見ると、この時期の赤ん坊は脳の機能が発達して表情豊かになっているそうだ。笑うこともあるらしい。笑う!今日の映画中も胎動が結構あったようで、IMAXで観たので迫力のある音に驚いていたのかもしれないが、何かに対して反応して、それを表情として表せるようになる段階まできたということを知って、まだ出会ってはいない我が子ではあるが、ますます愛おしさが増していっている。赤ん坊の記録を少しでも残したい気持ちで、今日映画観た後は一眼レフを探し回った。

2018/05/06

本を100冊ほど処分した。最初は本を処分することが嫌で仕方がなかったが。実際にやってみると、そこまで嫌な作業でもなく、処分した後は逆にさっぱりした気持ちだった。
 
積読の本はもちろん、一度読んだ本でも、後々読み返す可能性を考えて今まで処分したことはほとんどなかったが、思い返せば読み返したことなど数えるほどしかない。たとえ読み返すとしても、そういった何度も読む本というのはだいたい決まっているもので、読み返すことを前提として全てを手元に置いておくのは、よく考えればアホらしいことだ。処分している途中に、妻が「また読みたいと思ったら買えばいい」と言ったが、ほんとうにその通りで、今日も処分した本のほとんどは文庫本だったし、手に入れようと思えばいつでも手に入れることができるようなものばかりだ。そもそも手元になければ、読み返したいという気持ちさえ起こらないかもしれない。手元にあるから、いつか読み返す、これはこういった思い出がある本だと、何かにつけて意味を付与したがる。目に見えるものとしてあることで、意味を付与して、そこに執着が生まれるのだ。目に見えるものとして存在しているから執着が生まれるのか、電子書籍であれば執着は生まれないのか、そこのところはよくわからないけれど、目に見えるもののほうが執着が生まれやすいのは確かだ。いくつかの宗教が偶像崇拝を禁止しているのには、執着と呼ぼうが他の言葉で表現しようが、イメージに対して必要以上に意味を付与してしまって、本質が見えなくなることが関係しているはずだ。
 
まぁ、こんなことを書きつつ、僕はレコードという目に見えるかたちものとして音楽をせっせと採集していて、それを止めるつもりは今のところさらさらにない。頭の中の少なくとも3割程度は、レコードが占めている。明らかに矛盾である。だが、物にはスペースが必要で、今回本を処分をしたことで、レコード分のスペースが生まれる。何が必要で不必要であるか、生活のもっとも基本的なことを今まで怠っていて、不必要な物を処分することの快感を認識しただけに過ぎないのかもしれない。

2018/05/05

昨日の日記には書かなかったけれど、GWの期間中、横尾忠則のレコードジャケットのイベントが大名で開催されていて、昨日仕事が終わってから行ってきた。横尾忠則のジャケットを見ることができる他、レコードも売っていて、290円コーナーでいくつかのレコードの収穫があった。

Wings『Wings At The Speed Of Sound』、Tom Petty and The Heartbreakers『Southern Accents』、サンタナ・マクフラリン『Love Devotion Surrender』の3枚。この中でも『Southern Accents』と『Love Devotion Surrender』は聴いたことがないアルバムではあったのだけれど、もし好みでなくてもたった290円。見つけた時点で買わない選択肢はない。

で、今『Love Devotion Surrender』を聴いているのだけれど、これが素晴らしくいい!マクフラリンは何枚か聴いてみたことがあるのだけれど、あまりピンとこなくて今までアルバムを買ったことがなかったのだが、これはとてもいい。

しかし、レコードは買ってみるまでわからない。わからないというのは、今回のように音楽そのものが、ということではなくて、盤質とか音質とか聴いてみるまでわからなくて、どこか博打で買っているようなところがある。290円だったら、特に躊躇せずに購入することができるのだけれど、欲しいレコードが中古でも4000円くらいで売っていることがあって、その時は本当に祈りながら購入するしかない。今回の290円で購入した3枚はいずれも所謂プチプチ音は少なくて、針飛びがすることもなく、盤の反りもなかった。ところが、新品で購入したレコードの方が盤の反りがあったり、針飛びが激しいということも結構ある。最近の新品レコードは多くが180グラム盤だが、中古で見つけるペラペラの薄くて軽い盤の方が音がよく聴こえることもある。

そういうこともあって、レコードを買うというのは冒険のようなものであり、だからこそレコードを探している時はワクワクするし、目ぼしいものを見つけた時の喜びは大きい。見つけても家に帰って実際に聴くまでわからないので、聴いてみて問題なく聴けて、それが心打たれるような音だと二重の喜びがある。

2018/05/04

福岡でも『The Last Waltz』が上映されることがわかってテンションが上り、昨夜は『The Last Waltz』のBlu-rayを観ながら、僕にしては結構な量のワインを飲んでしまった。そうなると熟睡できるわけはなく、寝ている間も1秒毎に映像が切り替わっていって、それが夢のなのか、はたまた僕の休むことのないマインドなのかわからないが、その映像が現実ではないということをはっきりと自覚しつつ朝までの時間が経過した。今日忙しいことは分かっていて、最近の睡眠の傾向からして酒を飲んだら熟睡が期待できないことも分かっていながら、ワインを飲んだ。今朝は、というよりも午前中ずっと体がきつくて、それでも仕事を進めなければならない状況だったが、午後から仕事も落ち着いてきてなんとか乗り切ることができた。

帰って夕食を食べ終えると、妻がどうしても公園を歩きたいと言って、僕は全然気乗りしかったが、渋々ついていくことにした。

夜の散歩というのこんなにも気持ちがいいということを忘れていた!特に今夜なんかは程よく涼しくて歩いていて、心が落ち着いてくる。博多どんたくで、20時近くでも多くの人で五月蝿い、もとい賑やかだった天神とは違って、大濠公園はいつもよりも人が少ないくらいで快適だった。散歩に誘ってくれた妻に感謝しなければならない。家にいるよりも公園に行くほうがいろいろと話もできて楽しいものだ。

2018/05/03

博多の街は、博多どんたくで人で溢れかえっていた。昼休みくらいしか外に出なかったが、新天町も人、人、人でかき分けて通るのも大変だった。そんな中、僕は仕事で、それはいいのだけれど、こんな時に限って仕事は大忙しで、トイレに行く暇もなく定時までパソコンに向かいっぱなしだった。おそらく明日も同じような感じになりそうだ。

定期的に同じようなことを繰り返し書いている。仕事の日はそれ以外に何もないし仕方ないのだけれど。夢の中でも面白いことがあればいいのだが、あいにく夢の内容はまったく覚えていない。毎夜、夢は必ず見るのだけどなぁ。

今日は何も書くことがない。書く元気もない。惰性で書いているようなものだ。仕事以外に何もしていないのだから仕方がない。