Life Itself

生活そのもの

2017/11/09

自宅近くの行きつけのパン屋で購入したパンの受け渡しを待っていると、野良猫がパン屋を覗きながら通り過ぎた。猫がパン屋を覗きながら通り過ぎるといった光景は、世界中のあらゆるところで見ることができるもので、なんら特別なものではないのかもしれないが、僕にとっては初めての経験でとても幸せな瞬間だった。昼の2時過ぎ。このパン屋の近くでは、だいたいこの時間帯に猫に出くわすことが多い。

思えばパン屋というのは小麦粉だけなく、パンに挟む卵やハムやシナモンなど様々な香りが漂っているはずだが、今日の猫はただ店を覗き込んだけで、ほとんど足を止まらせることがなかった。昼食べたばかりでお腹が空いていなかったのかもしれない。

店を覗き込むその瞳はとても可愛らしかった。何を求めるでもなく、無関心そうに人間2人が向かい合っている姿を見ていた(ように見えた)。

 

細野晴臣さんの新譜を今日購入した。『Vu Ja De』というタイトル。『HoSoNoVa』みたいに細野さんの造語かと思っていたが、『Vu Ja De』というのは細野さんが作った造語ではなくて、米スタンドフォード大学のボブ・サットンという教授が作った言葉であるらしい。『Vu Ja De(ヴジャデ)』の文字列から察することができるように、これはDeja Vu「既視感」を逆さまにした意味で、「未視感」。よく知っている事柄を初めて体験するような新鮮な感覚のことだそうだ。

昨今マインドフルネスという言葉があちこちで使われていて、この言葉が意味するものもコチコチに固まってきた感があるけれども、この未視感は『マインドフルネス』に物事に接することから生じる感覚であると思う。「今=ここ」で目の前にあることに集中し、三昧する。そうすることで、過去の条件付けから解放され、初めて経験するように目の前のものを経験することができる。細野さんは、昔からよく聴いていた50,60年代の音楽をライブでカヴァーしようとしたときに、全く知らない音楽のように感じられ、結局一から作り上げていくことになったらしい。

微細なところから物事を見ると、気づきがある。その気づきは新たな気づき。たとえ日常から接しているものであっても、気づきは得ることができる。日々の生活や仕事の業務に追われるようになると、この気づきを得ることが難しくなってくる。

僕もこうやって書きながら、その場で考えていることを言葉にしたいとは思っているけれども、僕の中から出てきた言葉なんてほとんどない。野良猫に出会ったのは間違いなく僕自身の体験であって、その体験をそのまま書いたが、書きながらどこかで読んだような、映画で観たような既視感があった。言葉を使って書いているが、実際には言葉に誘導されているという方が正しいかもしれなくて、型におさまった書き方になっている。それは日本語の文法とか、正しい日本語の使い方とか以前に、その型におさまらなければならないといった強制するものがあって、そこから逃れることができない。だからこそ、違和感もなくこの文章を読むことができるのだろうけれど、この誰から強制されているかわからない書き方、言葉からどうにか逃れたいし、初めて文章を書いたときのように書ければいいのにといつも思う。書き方を強制しているのは、過去の自分であって、これまで読んできた本であって、教育により染み付いたものであって、あとは型から外れることを知らず知らずのうちに恐れている心だろうと思う。

条件付けをどうやって解放していくのか、その方法について今では考えつかないけれど、一つは日々書き続けること、その反復から少しずつ気づいていくことが大切なんだろうと思う。反復していても気づきは必ずあって、また反復していくことでどこかで逸脱が生じる。その逸脱はさらなる逸脱を生んで、新たなリズムが生まれる。これは、アフリカ音楽のライブを聴きながら感じたことだ。僕の文章もそうやって反復から逸脱してダンスとなればいい。ダンスは解放へと繋がる。

条件付けということで言えば、僕のウクレレストロークだってそう。CDを聴きながら練習しているはずなのに、どこかずれ始める。音の跳ね方が全然違う。自分では同じように練習しているはずなのに、全然違うと指摘される。このリズムはどこからきたのだろう。これまで音楽の経験といえば、幼少期のヴァイオリンくらいなものなのだけれど。

ウクレレこそ反復だ。ただ自分のリズムで気持ちよく弾いて、弾きながら踊れるようになりたい。