Life Itself

生活そのもの

2017/11/05

3週間程前に軽度の突発性難聴と診断された。

 

静寂が聞こえると言うけれど、静かな場所にいると耳鳴りのような音が聞こえてきて、僕は昔からそれを神経質に捉えてしまう。多くの音には、鳴り始めと鳴り終わりがあるが、この静寂には始まりもなく終わりもない。この静寂の音を僕以外の人がどう感じているのかわからないけれど、気になる人はいるだろうし、僕のようにずっと気にする人もいるのかもしれない。だが、もし気になる人がいても、どこかでそれを乗り越えて、気にならなくなるのだろう。この音に終わりがないということに気づき、それをずっと気にすると、おそらくその先にあるのは心の病だ。

 

子供の時からずっと気にし続けているから、僕は静寂から離れようと努めてきた。静寂の場所にはいないようにする。夜は静寂になるから、静寂の音から離れるために、視覚だけに集中するようにする。眠くなるまでは本や携帯で文章を読んで、自然と寝るまでひたすら視覚を働かせる。

ヨガをやり始めてからは、「心の働きを止滅させる」ということを学んで、視覚も働かせず、ただ呼吸だけに集中して考えを沈めるということもできるようにはなってきたが、それでもやはり静寂にとらわれることがたまにある。その時にはとらわれているのは誰なのか、と自分自身に問いかけ、そこに対する気付きを与えて、静寂の音が聞こえているという感覚から離れようとするが、上手くいかないことも多い。

最近では、ヨガや瞑想もしているが、これはこれからもずっと付き合って続けなければならないと、諦念を持つようになり、それで気持ちが軽くなってきた。そのタイミングでの突発性難聴だった。

 

難聴の症状が表れたのは、いつものように静寂が気になってきて、あぁまた心がとらわれているなと思い、そこでヨガや瞑想をする気にもなれず、じゃあ映画でもと観始め30分ほど経ったころだった。30分を経過しても映画に集中できずに耳鳴りが気になる、時間が経つにつれ気にならなくなるどころか、音がこもるような症状が表れ、これはおかしいと感じたらそれが翌朝まで続いた。いつも以上に気にしているだけではないかと半分訝りながら病院に行くと、軽度の突発性難聴と診断された。

 

昔から静寂の音にとらわれていると思っていたが、あまりとらわれすぎると今回のような軽度の症状に気づくのは難しい。その感覚に自分がとらわれているだけなのか、それともそれが体のサインなのか、その線引というのは非常に曖昧で、頼るのは自分の感覚しかない。とらわれていなくても体の不調のサインは気づきにくいものかもしれないが、自分は神経質だから体に不調になってもすぐに気づくと思うのはたぶん違う。神経質になればなるほど、心が感覚にとらわれればとらわれるほど、体のサインには気づきにくい。

突発性難聴は発症してから早く処置することが大切なのだそうだ。発症してから時間が経ってそのまましてしまうと、難聴が治らなくなってしまう可能性がある。今回は軽度の突発性難聴だったが、軽度だったからこそ早めに気づくことができたのは幸運だった。検査の結果としては明らかに聴力が落ちているにもかかわらず、いつもの耳鳴りを気にしすぎているのではないか、病院に行く必要はないのではないかと、自分の判断を頼ることができなかった。

 

感覚というのは自分でしか感じることができないからこそ、感覚と自分との間に一定の空白が必要だ。過去の経験から条件付けされた感覚を自分を離し、現在の自分で、判断せずに感覚を見る、気づく。感覚を対象化するようにして、眺める。とても難しいのだけれど。