Life Itself

生活そのもの

2017/11/07

昨日の自分というのは今日の自分と確実に違っている。

その日その日で、もっと言えば毎時間毎時間、瞬間瞬間で関わっているものは変化しているのであって、それは自らが求めようと求めまいと常に変化し続ける。関係するものが変化するのであれば、それによって自分が変わるのは当然のことで、だから毎日同じ仕事をしても、たとえ毎朝同じ朝食でも自分は変わり続けている。変化の方向というか傾向はあるかもしれないけれど、変化それ自体に良い変化とか悪い変化とか判断を与えることには意味がない。ただ変化し続けている、そしてそれを受け入れる。でも、その変化に抗いたい心は誰にでもあると思う。

今日はいつも通りに仕事に行って、特に残業もせずに大体いつも通りに帰宅した。だけど、なんだろう、今日はいつもと感覚が違う。その感覚を受け入れることができないとうわけではないが、両極から引っ張られたゴムのようなもののちょうど真ん中にいてようやく均衡を保っているような緊張がある。帰宅してからはご飯を食べて、それからしばらくウクレレの練習をして。どうも何もしたくない気分の時には、ただぼんやりとテレビを観るが、それもできない。昨日ウクレレのことを書いていながらではあるけれど、今日は特段ウクレレを練習したい気分でもなかった。テレビ等を観てた何かを受け入れるのではなく、自分で何かをしている気分になりたかった。それでウクレレを手に取った。1時間少し練習した。練習したというよりは、ただ触った。それは気分であって、やはり気分に沿っているだけのこと、結局はただ受け入れている。今、こうやって書いているが、感覚をことばにして、脇に置きたいのかもしれない。ことばにすることで、輪郭を与える、これとそれを分ける。分別する。区別する。そうして安心する。だが、どうだろう、ことばにして感覚を片付けることができたか。ことばには意味よりはみ出るものがある。こうして書いてみて、このはみ出るものこそが、今日の感覚に近いような気がする。

 

僕は書いた。両極から引っ張られたゴムのようなもののちょうど真ん中にいてようやく均衡を保っているような緊張があると。このゴムの太さはどれくらいだろう、腰幅くらいの太さかな。このゴムが弛んだらどうなるか。均衡を保っていてようやく立っていたところからバランスを取って前に後ろに動かなければならなくなる。ゴムを揺らしたら?一度引っ張ってそれを離したら?均衡を保てない。ゴムが弛み、揺れたら、立ってはいられなくなる。僕はゴムの上で前に後ろに、上に下に動く。踊る。踊りは、一種ほぐれることでもある。今日は書くことでゴムを弛ませたいと思った。何をことばにしたいのか自分でもわからなくて着地点を探そうと動き回ったが、着地点は見つからなかった。そもそも着地点などいらない。ただその場で自らのリズムで足踏みすればよい。すこしほぐれた。