2018/06/01
少しずつ読んでいた志村ふくみ著『ちよう、はたり』を読み終えた。通勤電車に乗っている5分間や、ちょっとした待ち時間などに読むようにしていたので、本当に少しずつ少しずつではあったが、その少しの時間でも読むと確実に世界が変わる。
メルヴィルの『白鯨』もようやく中巻を読み終えようとしている。明日には下巻を購入する予定だ。おそらく出産までには読み終えることができるのではないかと思っている。
赤ん坊が産まれると生活は変わるとよく言われる。どう変わるのかは実際に産まれてみなければわからないが、それでも1日に5分くらい本を読む時間はあるだろうし、音楽を聴く時間もあるだろう。妻と協力しあえば、育児しながらでもできないことはきっとない。
僕は本を読むことと音楽を聴くことで今まで救われてきた。救われたなんて大層な言葉をと思われるかもしれないが、今まで何度か僕なりに危機的な状況は経験してきて、その危機の間、もしくは危機が過ぎ去った直後は、本と音楽によって救われてきたのである。出産は一大事であるかもしれないが、育児は危機的な状況でもなんでもなく、むしろ喜ばしい経験だ。喜ばしい経験とは言っても初めてのことでストレスは感じるだろう。だが、少しの時間でも本と音楽に接することができれば、それがスイッチとなって、なんとか生活していけるかもしれない。
楽観的な考え方かもしれない。だが、もう出産予定日まで1ヶ月を切っている。楽観的でもなんでも、日によっては悲観的になるだろう、とにかく具体的なイメージを持って未来の生活を想像する必要がある。
この数日間、なにかよいパパの育児小説がないか、と本屋などで探していて、ちょうどさっき『ちよう、はたり』の次に何を読むか自分の本棚を漁っていたところ、随分前に購入した堀江敏幸の『なずな』を見つけた。本の裏を見ると、これは育児小説とある。ちょっとした予習になるだろうか。今夜からさっそく読んでいこう。
2018/05/31
2018/05/30
気づいてはいたけれど、福岡の車の運転は本当に荒い。今日、速度を落とすことなく突っ込んで左折してきた車に、母が危うく轢かれてしまうところだった。これから車を運転する機会も増えてくるだろうが、荒い運転をする車からのもらい事故には注意しなければならない。街中をベビーカーで押して歩くのも考えものだ。ベビーカーで押して歩くと、押す側である僕ら夫婦と押される側であるベビーカーに乗る赤ん坊の間にどうしても距離ができてしまう。この距離が、万が一事故に遭ったときに致命的になりかねない。福岡市内ではできる限り抱っこ紐で移動すべきだと改めて思った。
購入したキッチン棚が届いた。今までは100年前くらいのアンティークのトランクの上にレンジやトースターなどをむき出しで置いていて少し危なっかしかった。子どもが歩き回ることができるようになれば、すぐに手が届く場所にそれががあることになるので、今回を機にちゃんとしたキッチン棚を買うことにした。組み立てるのには少し時間もかかったし疲れはしたけれど、だいぶスッキリとした。これでひとまず安心ではある。
これから赤ん坊を迎えるにあたって妻と話し合う中で、今まで住んでいた部屋がいかに2人だけのための空間であったかということに気付かされた。それが悪いというわけではなくて、お互いに多少の不満を持ってはいても僕ら2人によってそれぞれが快適に生活していくために形成された居住環境であったということだ。赤ん坊なり猫なり、僕ら以外の誰かを受け入れるには、あまりに柔軟性のない居住環境であったのである。今まで気づかなかったのではなく、気づいていながらも知らんぷりしていただけなのかもしれない。
妻が妊娠してからは、だいぶ部屋の感じが変わったのではないかと思う。趣味に偏りすぎていた部屋が、その趣味性がだいぶ削ぎ落とされてその分生活感が増した。多くの人が経験する通過儀礼のようなものかもしれないが、僕にとってはかなりのエネルギーを要する経験であった。居住環境が大きく変わったことに不満は全くなく、むしろスッキリした気持ちがしているのは不思議であるが。
2018/05/29
明日は僕の両親が福岡までやってくる。1つはもうすぐ臨月になる妻の様子を見るため、もう1つは余命1年と宣告されて既に半年以上経過した祖母の様子を見るため。これから産まれてくる命と、この先の余命について宣告された命。どちらも同じ命、僕ら家族みんなに関わる大事な命だ。
そんなに頻繁に会うわけではないけれど、たまに会いに行くと祖母はとても元気だ。特に妻と話すときに元気になる。遊びに行くと必ず妻に何かしらのプレゼントを用意していて、妻が喜ぶ様子を見せると、子どもみたいに高い声で嬉しそうに笑う。何の見返りも求めず、単純に妻に喜んでもらいたいからプレゼントしている。妻は実際に喜んでいるし、感情を表現するのが上手なので、祖母にとっては妻の反応が生きがいみたいなものなのかもしれない。
祖父と二人三脚でずっとビジネスをしてきた祖母は、昔はとても厳しかったという。僕の母に言わせると、たまに鬼のように怒ることがあって、会うのがとても怖かったそうだ。僕に対してはいつもニコニコしていて、怖いイメージは全くないが、母が祖母を恐れていたことは子どもながら気づいていた。それが祖父が亡くなる前後あたりから、仏のように優しくなったのだと母は言う。祖父が生きていた頃は、会社のある佐世保と週末をゆっくり過ごすだけの場所である福岡を毎週行き来していたが、祖父が亡くなってからはずっと福岡にいる。祖母にとっては週末がずっと続いているようなもので、しかも毎晩娘、孫、ひ孫と会っている。祖母は「おっきいばあば」と呼ばれている。
最近の祖母を見ていると、仏ではなくて天使のように見える。僕の言う天使のイメージはフランダースの犬が死んだ後に天国に連れて行く、あの小さな可愛らしい天使だ。最近の祖母はとても可愛い。一生懸命生きて、目の前のことに一喜一憂する。その笑顔は全く汚れが見えない。
赤ん坊が無事産まれれば、祖母にとってはおそらく12人目のひ孫になる。抱っこはできないだろうし、まだ顔の出来上がっていない赤ん坊の顔を覚えてもらうのは難しいかもしれないが、生後数ヶ月後の子どもの笑顔を祖母に見せたい。そして、祖母の笑顔を子どもにも見てもらいたい。
2018/05/28
20代のうちから飛蚊症を発症していて、今も目の中には常に3,4匹の蚊が飛んでいるように見えている。飛蚊症に関しては全く気にはしていないのだけれど、普段から目を酷使している自覚はあって、目がひどく疲れていることにたまに気づく。PCの仕事を毎日8時間以上続け、帰ってからもスマホやPC、テレビを見ている。そういった画面を見ていないときには本を読んでいるので、ほとんど目が休まることがない。
PCやスマホの画面を見ている時は瞬きが減るのだという。たまに仕事中にトイレに行って鏡を見ると目が充血しているのを見て驚く。無意識にしている瞬きだが、PCの画面を常に凝視するせいで、脳の働きが瞬きをストップさせているのだろうか。瞬きが減ると目が乾く。かわいそうに、僕の目は常に水不足だ。
昨日、眼鏡を新調しに行った。注文しただけでまだ届いてはいない。検眼のために今まで使っていた2つの眼鏡を持っていたのだが、2年前に作った新しい方の眼鏡は、左と右で度数が違うと指摘された。この眼鏡を購入したばかりのとき、視界が歪んでとてもかけていられなかった。次第に慣れていったが、違和感は左右の度数が異なっていたことが原因だったのだろうか。対して、古い方の眼鏡は新しいものよりも度数が強いのだという。古い方の眼鏡は確かによく見えるが、長くかけていると少し頭痛がしてくる。今回検眼するまで、2つの眼鏡の間の度数に違いがあることや、新しい方の眼鏡に左右差があることなんて全然知らなかったし、気づかなかった。体の中で目ほど使うところもないのに、目の感覚ですら頼りなくなっている。
眼鏡をお願いしたお店は心から信頼しているが、今回の眼鏡はいい感じに仕上がってくれたらと思う。眼鏡をしたところで視力が回復することはなく、仕事中に目を酷使しなくなるわけでもない。だが、できる限り目に適した眼鏡を使って、これから産まれてくるとても小さい赤ん坊の、さらに小さい手、足の指1つ1つまで、そして細かい産毛まで見たい欲がある。
2018/05/27
2018/05/26
仕事に行っている間に妻が僕の部屋の整理をしていてくれた。
部屋の大半のスペースを占めているのがレコード・CD、そして本なのだが、それらの本をどう整理すればいいものか考えることができず、この数年ずっとそのままになっていた。それを妻は1日足らずで片付けてしまった。
掃除に関してはいつもそうだ。僕が5時間くらいかかりそうな片付けを、妻は30分ほどであっさりと終わらせてしまう。妻に掃除の才能があるのは間違いないが、僕には掃除をする能力が完全に欠けてしまっている。
今まで居場所をなくしていたモノたちの場所ができたことで、仕事で疲れているにも関わらずこの時間になってやる気になって整理をし始めている。僕がやっているのは掃除でない、ただモノに場所を与え、分かりやすいように整理しているだけだ。
しかし、この整理の作業は楽しい。