Life Itself

生活そのもの

『Ryuichi Sakamoto: CODA』を観た

Ryuichi Sakamoto: CODA』を観た。

とてもいいドキュメンタリー映画だった。以下、少しネタバレ的なものが含まれています。

 

映画の冒頭だったか、坂本龍一が3.11で残ったピアノを弾いていた。津波で調律も狂い、サビつき、押しても戻ってこない鍵盤がいくつもあるような状態。通常のピアノとは異なる音が鳴る。

ピアノは、人間が自然と感じる音に調律している。それは自然から見れば不自然であって、あくまで人間にとっての自然である。自然のものから作り上げたピアノの音はしばしば狂い、調律が必要となる。だが、それは元の素材が自然の状態に戻ろうとしているだけだ。3.11のピアノは狂っている。それは自然が起こした災害によって狂った。否、元の自然に戻った。そのピアノには言うに言われぬ魅力がある。人間が作り上げた自然に嫌悪感を抱いているというようなことを坂本龍一は言っていた。

 

北極でティンシャを鳴らしていた。風の音、波の音、気温。いい音だった。北極の湖の中で拾った音は、最もピュアな音だと言っていた。

 

永遠に鳴る音。ピアノは一度鳴らすと、音は次第に小さくなくなってなくなる。永遠に鳴る音と聞いて、僕は静寂の音/耳鳴りを思い出した。静寂の音/耳鳴りこそ、ずっと鳴っている。心地よい音ではない。耳鳴りの音は死んだらなくなるのだろうか。

坂本龍一も音楽で参加したイニャリトゥ監督のレヴェナント。1ヶ月ほど前に観たイニャリトゥ監督の『BIUTIFUL』がずっと頭に残っている。癌に冒され、徐々に死へと近づく男の頭の中では高い耳鳴りの音が鳴っている。非常にリアルな音で、僕にとっては映画を観てまで聴きたい音ではなかったが、それでも不快な感じがしなかった。それが不思議だった。イニャリトゥ監督の作品はどれも全方位から感覚を刺激してくる。観た後はどっと疲れるが、それは体験として体に残る。ここ数年間で観た映画の中でも、レヴェナントを最初に鑑賞した時の感覚は他では味わうことができない類のもので、圧倒的だった。

 

言葉にできぬもの。感覚として捉えきれぬもの。ものとものの間。ノイズ。坂本龍一は、人間が作り上げた自然ではなくて、複雑そのもので人間では分かつことが決してできないあるがままの自然の音を取り込んでいた。深い森の中の葉と葉が重なり合うことによって生じる音、鳥の鳴き声。映画の中で森林の鳥の鳴き声を聞いた時、僕はその音に引き込まれたが直後、その鳴き声は鳥と鳥がコミュニケーションをしている、ある鳥が鳴くことで別の鳥が鳴いているのであろうか、光の加減や風の強さに対して反応しているのだろうかなどと分析を始めていた。くだらないことをしてしまっていると思った。と、同時に古来から人は僕と同じように自然から様々なことを感じ、思い、分析し、想像していたのだろうと思った。自然への畏怖。理解できないものを理解できないものとして捉え、しかしそこから感じとること。坂本龍一は自然の音を取り入れて、それを西洋の論理的に作られたピアノなどの音楽と組み合わせる。人間の理解を超えた複雑な自然から聞こえてくる音と、人間にとって不自然と感じられる自然の音を人工的に排除し、人間が自然と感じる音に制限した西洋の音と組み合わせることによって、こちらと向こう側の間(あわい)を感じることができる。自然から採取した音にピアノと合わせて「いいんじゃない」と言っている姿をみて、すごく興味深かったし、僕自身どこか救われた。

 

思えば、今年は何度かバランスを崩した瞬間があって、そういう時には体だけでなく心に大きな迷いというか言葉には表現できない苦しみ、窮屈さを味わっていたが、そんな時に偶然手に取ったものが本当にタイミングよく救ってくれた。1つが坂口恭平の『現実宿り』、そして今回の『Ryuichi Sakamoto: CODA』。これらを手にとって読み、観たところで言葉にできないことは言葉にできないままであることに変わりないが、その言葉にできないものはこれらの作品を体験した後に感じた感覚と同じもので、作品を通して少し流れて気が楽になった。

 

今日映画を観ながら、もっとたくさんのことを感じたのだけれど、忘れてしまった。そうだ、森の中の音を採取しているとき、そこからへんに落ちている物を叩いて音を出して、用意したのではない偶然そこにあるもので音を鳴らしていた。どこの場面か忘れたが、シンバルをマグカップの底でこすって音を鳴らしたり。本来の用途を離れて、偶発的に音を出すものとして利用する。今は物の用途がわかっているから、用途に添ってものを利用するけれど、用途がわからない子供の頃はいろんな使い方をしていたなぁと思い出した。