Life Itself

生活そのもの

2017/11/28

今日、職場の人から「君にとっての音楽とは何か」と聞かれて上手く答えることができなかった。

つい数日考えたように、音楽は小説や映画と比較して反復しやすいところがある。でも、だから音楽を聴いているのか?それは違う。

どのミュージシャンが一番好きかと聞かれれば難しいけれど、どのような音楽が好きかと言われれば、少し考えれば答えることができる。では、その音楽は僕にとって何なのか。本当に一体何なのだろう。

振り返ってみれば、中高生の頃は、音楽は生きがいだった。救いだった。寄り添ってくれるものだった。

20代前半はライブに行きまくっていて、聴くものから見るもの、体感するものへと変わっていった。酒と音楽が混じる。愉楽だった。熱狂だった。と同時にルーツを探っていくもの、研究の対象にもなった。ルーツに触れるためにアメリカにも行った。

20代後半、音楽は見る世界を広げるものになった。それまで培ったものを深めるものでもあった。音楽を通して人の繋がりができたのもこの頃だった。

30になってからはどうだろう。購入する音楽は明らかに減った。だが、1枚のCDを何度も聴くようになった。自分の価値観を壊したい衝動に駆られて、今まで聴いていた音楽が聴けなくなった時期があった。一時期はMiles DavisのBitches Brewばかり聴いていた。うーん。音楽は、反復しやすいものではあるけれど、Bitches Brewは毎回初めて聴くように聴いていた気がする。理解しようとすると狂気に触れるもの。何かの気分を得るために音楽を聴くというのではなく、気分を壊すために音楽を聴いていた。でも、今は少し違う感じがする。

 

1つ。音楽は日常と非日常を繋ぐものであることは確かだ。生活に寄り添うものでありながら、何処か別の空間へ誘うものである。そして、もう1つ。音楽は今と過去を繋ぐものである。

(今?音楽というのは常に流れるものだから、その音を捉えようとするとすでにその音は流れ去ってしまっている。今というものをどの程度の長さとして考えるか。坂本龍一のCODAでもピアノの音を鳴らしてからそれが鳴り終わるまでは結構な時間があった。鳴っている間を今と考えるか。鳴り終わった時、鳴り始めはすでに過去のものとして捉えるか。持続する音。永続する音というのは、きっと狂気を含む。僕は耐えれるか自信がない。Bitches Brewだってずっとあれが続くのであれば耐えられない。終わりがあるからこそ聴くことができる。)

 

最近、音楽を聴く時は気分を選ぶ。自分が所有していてある程度聴き込んだ音楽でもどれでもいいということはなくて、必ずその時の体や心の状態によって聴ける音楽は限られてくる。理性で音楽を選び、聴いているということか。自分の気分にただ従っているだけではないか。あまりにも受動的ではないか。だとすれば馬鹿らしい。音楽はスイッチだ。もっと聴け、浴びれ、探せ、壊せ。考えるな。

 

結局のところ、自分にとって音楽とは何かという問いに対する答えはない。難しいことを考えずに、聴きたいから聴いている。そう言いたいけれど、それだけではないような気がする。

 

アフリカ大陸はあれだけ広大なのに、リズムは1つしかないのだそうだ。リズム、踊り、表現、宗教、嘆き、享楽、エロス...

 


Bassekou Kouyaté - AFH59

 

また徒然なるままに。脈絡もなく、書きなぐった。