Life Itself

生活そのもの

2019/11/18

昨日の日記を書いた後に、風呂で森田真生の『数学の贈り物』を読んでいると、宇宙ということばに関して僕がひっかかっていることに近い内容が107ページから108ページにかけて書いてあった。

マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980- )が著書『なぜ世界は存在しないのか』でくり返し口をすっぱくして語っているように、そもそも「宇宙」は「世界」ではない。「宇宙」とは、あくまで物理学の研究領域のことにすぎない。そこには、公園もなければ、親子の関係もない。だから、「宇宙」について研究することは、「すべて」について考えることではない。宇宙は、世界全体(そんなものが存在しないということがガブリエルの主張であるが)よりもはるかに小さい。だが、ビッグサイエンスに熱狂する背景には、「宇宙」と「世界」を混同するのに似た誤解がどこかに紛れ込んでいるのではないか。重力波についての研究が、たとえば仏教史や芭蕉の文学にまつわる研究より「先端」だと考えるべき理由はないのだ。科学の成果は喜ばしいが、間違った方向に過大評価しないように気をつけなければならない。 肝心なことは、知の本質に最も肉薄した特権的な場所など、どこにも存在しないということである。「最先端」だけが価値ある場所ではない。「研究するとは、情熱をもって物事を問うこと以上のものでも以下のものでもない」と言ったのは数学者のアレクサンドル・グロタンディーク(Alexander Grothendieck, 1928-2014) だ。 すべての人が、いまある場所で、「情熱をもって物事を問う」ことこそが、学問の生命である。

「宇宙」が「世界」であるかのように、「世界」が「宇宙」であるかのように、わかったように語られることが僕の最大の違和感なのだ。「世界」は繋がっている、ほら素晴らしいだろ?という姿勢が我慢ならないときがある。

森田真生の『数学の贈り物』は思い出したように少しずつ読んでいて、しばらく読んでいない時期もあったのだが、最近風呂に浸かるようになってまた読み始めた。で、昨日の日記を書いたら上のことが書いてあった。まさに自分自身に一番響くときに偶然読むことができたわけではあるが、思えばその違和感というのも、僕が普段接している本やら人やらに影響を受けてのものなのだということなのだろう。違和感があるからそういった本を手に取っているのか、本を読んだから違和感が生じるようになったのか、よくわからないが、いずれにしても手に取る本の多くはその違和感に対してのなんらかのヒントを与えてくれる。小沢健二の『So Kakkoii 宇宙』もそうだ。まだ小沢健二の言う「宇宙」が僕の違和感のある使われ方をしているのかそうでないのか判断できていないが、どちらにしてもこのアルバムは僕にとっては大きな刺激になっている。音楽的に、そして歌われている内容的に。

引き続き、与えられたヒントをもとに、しつこくしつこく考えていくしかない。