Life Itself

生活そのもの

ガニ股のボブ

Netflixで公開されてボブディランのドキュメンタリーを観ると、ローリングサンダー時期のボブディランの白塗りの顔面のカッコよさを改めて認識するのだが、後ろからのショットもわりと多くて、そこでボブディランがガニ股でリズムを取っていることがわかる。それがカッコよさに抜けを与えるというのか、カンペキなカッコ良さではなくて、リズムを取るための自然の所作だとしても、そのガニ股によってある種の人間臭さが付与されているように感じる。

ラストワルツのボブディランは、ガニ股の姿は映されていないように思う。たとえ映されていても、僕は何度観たかわからないにもかかわらずそのことを覚えていない、ということはそこまで目立っていたかったということだろう。ラストワルツのボブディランはカンペキに近いカッコ良さだった。ザ・バンドと音を合わせる場面はいつ観ても鳥肌ものだし、その際の目配せの瞬間だけは人間らしさが見えるように思うが、それ以外はどこか雲の上の存在のような、個人的にはそれほどのカッコ良さである。だが、Netflixのガニ股の ボブディランを観て、僕はボブディランのことが一層好きになった。そういった隙が今まであまり見えず、何度ライブを生で観ても、文字通り神のような存在だった。

最近、娘の動きもずっと人の動きらしくなってきた。肯定するときはうなずくし、否定するときはしっかりと横に首を振る。膝でリズムを取り(ガニ股ではない)、体を横に振り、ジャンプはできないが体を大きく上下させる。大人の動きを真似しているのだろうか。しかし、体の動き方というのは、いくら真似してもその人らしさが出てくるものであるから、人の動きらしくなってきたのと同時に、娘の個性としての動き方も出てきているのだろうと思う。個性が個性らしくなるのはまだ先のことかもしれないが、その個性を認めたときには、僕らはしっかりとそれを認めて、肯定してあげるようにしたいと思う。