Life Itself

生活そのもの

Double Chin

今日でようやく日常が戻ってきた感じがする。

ランチで久しぶりに行きつけのカフェに行った。カセットの話になった。ここ数年、カセットが流行っていることは知っているが、音はどうなのか。マスターは友人のビンテージカーでカセットを聴いて、そのチープな音が良かったと言っていた。カセットは音の良し悪しではなく、そのチープさが故に流行っているのか。よくわからないが、チープな音がいいというのは何となくわかる気がする。中学の頃、寮監に隠れて、片耳だけイヤホンを突っ込んで聴いた音楽。チープといいうのともまた違うかもしれないが、あの時聴いたようには今は聴くことはできない。ビートルズやボブディランをリアルタイムで聴いた人は、今で考えるととてもチープな音響で、しかもモノラルでラジオから聴こえてくる音に耳を、いや体ごと傾けて、体を踊らせて聴いていたんだろう。リアルタイムで聴いた人から直接聞いたことだが、僕はそれを想像することしかできない。オーディオを少しだけ齧った今となっては、いかにいい音響で聴くかを重視しているが、いくらいい音響で聴いても、カセットで初めて聞いたビートルズの衝動にはきっと叶わない。それはわかりつつも、それに匹敵するような体験を夢見てオーディオ環境を整える。もしかしたら徒労に終わるかもしれないと考えながら。

『Once Upon A Time in Hollywood』はとても良かった。先に観た友人からは、ブラピがカッコいいことと、シャロンテート殺人事件について少し知っておいた方がいいと言われ、それってネタバレではないのかと思いながらも事件のことを調べた上で映画を観た。事件のことを知らなかったら、面白さは半減していたかもしれない。事件のことを知っていたからこそのラストの展開はカタルシスそのものだった。しかし、途中のマカロニウェスタンのダラダラとした感じはタランティーノらしさと言えばそうなのだが、その前日寝不足だった僕にとっては、その間襲ってくる眠気と格闘しなければならず、いさかかきつかった。そもそも映画の肝心の内容だけを描けば、あんなに長くする必要はなく、おそらく短編映画でもいけただろう。だが、あのダラダラがあったらからこそ人物の厚みができあがり、映画を観終わった後に気分が高揚したのだと思う。物語の厚みというよりは、人物の厚みである。主にはディカプリオが演じる役の厚み。眠気と格闘しながら、ずっと見続けて良かったと思った。 カフェのマスターと、ヒッピー、フラワーチルドレンの話になった。今まであまり観たことがないような描かれ方だったが、とてもリアルに感じた。僕は彼らを不潔に感じた。Don’t trust over 30というのは、こんな感じだったのかと初めて少し分かった気がする。

タランティーノと言えば、僕にとってはデスプルーフの冒頭の女性の尻だ。豊満だが、チープな感じ。このチープというのは悪口ではない。きっとカセットのチープと同じことだ。

『Once Upon A Time in Hollywood』は、都合の良い時間帯ではDolby cinemaしかなかった。いい音響であることに文句はないけれど、別に良い音響である必要はなかった。もちろん家で観るよりは映画館で観た方がいい映画だが、最高の環境で観るよりは、音楽含めてある種のチープさを楽しんだ方がいいように思う。ディカプリオのダブルチン。二重顎ってDouble Chinって言うのね。