Life Itself

生活そのもの

2019/08/17

まもなく一冊の本を読み終える。すでに次に読む本も決めていて、読んでいる最中の本を読み終えることを残念に思いつつも、次の本が待ち遠しくてしかたがない。ここ数日はそんな日々が続いていた。僕はその次に読むと決めている本を、既に持っていると思っていた。ところが、昨夜本を読み終わって、次の本を読み始めようと思って本棚を探したところ、その本がない。実は持っていなかったのだ。影響があるのは、その夜だけでない。翌日(つまり今日のこと)は仕事なので、仕事前に買いに行く暇はない。大事な通勤時間や昼休みにその本を読むことができないということだ。困った、これは実に困った。ないものは仕方がないので、とりあえず翌日に何を読むのか考えなければならない。鞄の中に本は1冊入っているが、これとは別に読むもの。と、昨夜急遽、今日読むための本を探すことになった。今日仕事が終わった後には本を買いに行く予定にしていたので、とりあえず今日の1日だけ読むことができればいい。べつに小説でなくてもいいのだけれど、長編ではいけないし、連作短編でもいけない。ショートショートの気分ではない。いくつも読みたい短編は積読になっているのだが、次に読みたい本がすでに決まっている状況では、なかなか手に取りずらい。いろいろと思案した挙句、手に取ったのが村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』だった。

村上春樹の著作の中で2回以上読んだのは、『風の歌を聴け』と、この本だけ。この本はたぶん3回ほど読んだと思う。だが、最後に読んでから2年以上は時間が経っているし、内容的に、ヨガを毎日している今の状況だと面白いのではないかと思った。今日半分ほど読むことができたが、思っていたよりもずっと納得させられる部分があった。

特に下記の箇所。

僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。そのような空白の中にも、その時々の考えが自然に潜り込んでくる。当然のことだ。人間の心の中には真の空白など存在し得ないのだから。人間の精神は真空を抱え込めるほど強くはないし、また一貫もしていない。とはいえ、走っている僕の精神の中に入り込んでくるそのような考え(想念)は、あくまで空白の従属物に過ぎない。それは内容ではなく、空白性を軸として成り立っている考えなのだ。
走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちのいろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。でも空はあくまで空のままだ。雲はただの過客に過ぎない。それは通り過ぎて消えていくものだ。そして空だけが残る。空とは、存在すると同時に存在しないものだ。実体であると同時に実体ではないものだ。僕らはそのような茫漠とした容物の存在する様子を、ただあるがままに受け入れ、呑み込んでいくしかない。 (村上春樹 『走ることについて語るときに僕の語ること』、pg34−35、株式会社文藝春秋

ヨガをしているときも、瞑想をしているときも、様々な考えが浮かんでは消える。その行為に集中して考えをなくしたいと思っているのだけれど、とてもできない。ヨガと瞑想を毎日するようになってからそろそろ2ヶ月がたとうとしているが、この点については全く思い通りにいかないのである。いつも何かの考えが浮かんでしまう。行為の最中には、考えが浮かんでもその考えと同一化しないように努め、その点については上手くいっていることが多いように思うが、ヨガ・瞑想が終わったあとは、今日も考えが止まることはなかっったなぁと少し残念な気持ちになる。 でも、ヨガや瞑想をしているときとそうでないときには違いがある。以前にも書いたように思うけれど、普段は無意識的に考え、ただ流しているが、ヨガと瞑想の間はその考えを見ている。見ているということは、考えと僕の間に距離があるということだ。それは空白と言っていいかもしれない。だから、ヨガと瞑想の最中には、考えと同一化することが少ない。それで十分なのかもしれない。同一化することがない状態を、考えと自分自身との間に距離を保つことを、できるかぎりヨガと瞑想の間は維持するようこれからも努力する。それをこれからも毎日続けて、その結果、普段の生活でも無理せずできるようになれば、それは素晴らしいことだろうと思う。